超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

深窓の令嬢とガラスケース

 早朝の住宅街。新聞配達の少年が古い自転車を押して歩いていた。
 パンクしたわけでも、疲れているというわけでもなかった。頬は紅潮し、吐く息は熱かった。配達区域はとっくに通り過ぎていた。
 彼は何の変哲もない家の前に自転車を停めた。表札には、仲間から聞いた通りの名前が書かれてあった。
 彼は辺りを注意深く窺うと、電信柱の陰に身を潜め、双眼鏡を取り出した。手の脂で汚れたレンズを垢だらけの袖で磨き、中を覗きこんだ。二階の窓が見えた。まだ分厚い緑色のカーテンが閉められたままだった。
 東の空が白々と明け、住宅街の屋根屋根の輪郭が白く浮かび上がってきた。どこかで鶏が鳴いた。双眼鏡のレンズの中で、カーテンがさっと開いた。
 窓辺に、赤い髪の少女が現れた。白いパジャマを着ていた。少年の周りには、パジャマなんてものを着て眠る人間なんて誰もいなかった。
 少女は窓を開け、朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、おもむろにパジャマのボタンを外し始めた。少年は唾を飲み込んだ。唾がいつもより濁っているような気がした。
 ボタンは少女の細い指に絡めとられ、ひとつひとつ順調に外されていった。少年が何か考えようとする前に、少女の上半身は朝日の中で露になった。

 ところで、少女の上半身には、本来乳房がついている場所からヘソの上にかけて、正方形のガラスケースが埋め込まれており、その中に少女と全く同じ顔の女が、こちらは全裸で横たわっている。
 これは少女が大人になった今でも変わらないことである。

 少年は叫び出したい気持ちをぐっとおさえ、少女を見ることに全神経を注いだ。少女が小さくあくびをした。窓辺に数羽の小鳥が集まってきた。
 少女が指をうやうやしく差し出すと、そこにちょこんと小鳥が止まった。少女は微笑みながらその小鳥を胸の前まで持ってきた。小鳥はガラスケースをくちばしでコンコンとつついた。すべてがいつも通り、といった風だった。少年は手品でも見ているような気分になった。
 ガラスケースの中で眠っていた女が目を覚ました。
 少年は女にレンズのピントを合わせた。
 ケースの中の女は大きく伸びをして、内側からガラスをコンコンと叩いた。小鳥がさっと飛び立った。少女はそれを見て笑っていた。
 女が眠そうな顔で立ち上がった。女の裸が朝の光で覆われ、きらきらと輝いた。女の乳房は赤く、大きかった。
 少年は何か言葉にできないものを下っ腹に感じ、思わず足をもぞもぞさせた。と、その拍子に自転車が倒れ、大きな音を立てた。
 少女と女が同時に、物音がした方に顔を向けた。少年とばっちり目が合った。少女は少年の手に握られた双眼鏡に目をやり、怪訝そうな顔で尋ねた。
「……何見てるんですか」
 少年は動きを止めたまま、少女が自分に話しかけているという喜びと、この場をどうにかしなければならないという焦りとを、口の中で飴を溶かすように、ゆっくり胸の奥で転がした。
「……何見てるんですか」
 少女が繰り返した。少年は乾いた喉の奥から声を絞り出した。
「……お……」
「はい?」
「……おっぱい…………ですけど?」
「……」
 少女は舌打ちした。女は手で胸を隠した。カーテンがさっと閉められた。
 少年の頭上で、朝の光が急速に濃さを増した。