超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

掌編集・十

(一)

 

 私が住んでいるアパートには、今死にかけの生き物が一人と一頭と居て、片方は私の部屋にいる私の娘、もう片方は隣の部屋にいる老いた象で。どちらももう長くないのだけれど、娘を看取るためにこの部屋にいるのは私だけで、片や象の周りには飼育係や新聞記者や獣医や祈祷師やたくさんの人が集まっている。

 

 (とてもとても貴重な象なんだって。)娘が前にそんなことを言っていたが、どうやら本当だったらしい。

 ふうん。

 (私もあんな風にちやほやされたいな。)象がまだ元気だった頃から、隣の部屋には人の出入りが絶えなかった。(私は平凡だからなあ。)

 

 今日隣の部屋は今までにないくらいのお祭騒ぎで、むせび泣く声やカメラのシャッター音や機械音や祈祷の呪文なんかがごちゃごちゃと入り混じって何だか妙に楽しそうだ。(お母さん。)とふいに娘が言う。私は何も答えずに、変に冷静な頭で氷枕をとりかえる。

 突然、ふろーん、みたいな声で象が鳴く声がした。隣の部屋がいきなりしんとして、皆が息を殺しているのが伝わってきた。私も自然とそちらに耳を澄ましていた。急に訪れた静寂の中に、娘のか細い呼吸音だけが一筋の煙のようにたちのぼっては消えていく。やがてぶるぶる、っと象がどこかの肉を震わせたらしい音がして、ぎゅっと静かに床が沈んだ。どうやら象が立ち上がったらしい。希望と悲哀を込めた感嘆の声が低く低く響いてくる。どうなることやら。

 

 (お母さん。)私ははっとして氷枕を取り替えようとする。(ちがうちがう。)娘がつぶやく。(お母さんも、やっぱ象、見に行きたい?)

 

 ずどんと大きな音がして振り向くと、壁が象の形に膨らんでいた。象は立ち上がりかけて結局倒れてしまったらしい。悲鳴が聞こえる。

 象が倒れた衝撃で、壁に架けておいた娘の絵が、剥がれて床に落ちていた。平凡な娘がいつだったか貰った唯一の金賞の絵が剥がれて床に落ちていた。

 (お母さん。)振り返ると、娘が目だけ動かして絵を拾おうとしていた。私が立ち上がりかわりに拾い上げ、娘のもとへ持っていくと、娘は既に死んでいた。隣の部屋から、示し合わせたような大号泣とシャッター音がびりびりと壁を震わせながら響いてきた。どうやら象も死んだらしい。私は力の限り壁を蹴った。物音がぴたりと止んでざわめきが広がっていくのがわかった。私は娘の絵を、醜く膨らんだ壁に貼り直し、大声をあげて泣いた。

 

 

(二)

 

 母が帽子に縫ってくれた怪獣の刺繍に、蛆が湧いていた。

 とうとう独りぼっちになってしまった。

 

 

(三)

 

 貧しい部屋の真ん中に、貧しい男が虚ろな目で座っている。汚く湿った畳の上には、空の酒瓶や、かつて果物の皮だったらしい黒い塊や腐った缶詰の残骸などが転がっている。

 男の腹が鳴る。

 胃がきりきりと痛む。男はよろよろと立ち上がり、黴だらけのカーテンを開ける。窓の外には重苦しい雨が降り続いている。男は力なく元の場所に戻り、テレビのスイッチを入れる。

 しかし何も映らない。

 ノイズがしばらく続く。男は絶望したような表情で、がっくりと顔をうなだれる。

 ふいにザザッと音がする。男が顔を上げると、画面に、母親の乳房にしゃぶりつく赤ん坊の映像が映し出されている。男は目をこらしてその画面を見つめる。赤ん坊は喉を鳴らして乳を飲んでいる。男は唾を飲み込む。搾り出すような音で腹が鳴る。

 男は慌ててテレビのスイッチを切る。しかし映像は消えない。呆然とする男の目の前で、赤ん坊が小さくげっぷをする。男は再び画面に釘付けになる。

 そのうちに、貧しい男はだんだんと、この赤ん坊が憎らしくなってくる。男はやおら立ち上がると、赤ん坊の映っている画面を平手で叩きはじめる。

 やがてそれは激しさを増していき、しまいには男は拳で画面を殴りつけている。

 とつぜん強い風が吹き、窓がガタガタと揺れる。同時に形容しがたい嫌な音と感触が、男の拳に伝わってくる。

 男が画面から拳を離すと、さっきまで乳房に吸い付いていた赤ん坊が、頭から血を流してぐったりしている。男の心は奇妙な安心感に包まれる。やがて砂像が崩れるように赤ん坊は画面の外へ落ちていき、白い乳房だけが残される。

 乳房はゆるやかな呼吸に合わせ、かすかに震えている。

 男はゆっくりとテレビに顔を近づけて、おそるおそる画面に唇を重ねる。

 

 窓の外で重苦しい雨がやっと上がる。涼しい風が黴だらけのカーテンを孕ませる。

 そして貧しい部屋からは、男もテレビも消えている。

 

 

(四)

 

 子どもを食べるおばけに食べられる子どもは、わたしの学校ではわたしが初めてだった。

 おばけからその報せ(食べます)を受け取った夜は、興奮でいつもより夜更かししてしまった。

 わたしは色々考えたあと、おばけに食べられることを、仲の良い数人の友だちにだけ打ち明けることにした。友だちはみな尊敬のまなざしで私を見つめた。良い気分だった。

 おばけに食べられる予定の日にも、わたしはきちんと学校に行った。さりげなくみんなにお別れしたかったし、事情を知っている友だちにはわたしはますます尊敬されることだろうと思ったからだ。そしてその思惑は見事に的中した。友だちは放課後、校舎裏に集まって私のために涙を流してくれた。

 夜は珍しくお父さんが早く帰ってきていたので、家族揃って外食をした。わたしがおばけに食べられることは家族は誰も知らないはずなのに、これはまたずいぶんおあつらえ向きだと思った。良い風が吹いていると思った。

 

 その夜、お風呂でしっかりと体を洗い、家族でテレビを眺めたあと、おやすみと小声でさよならを言った。いつもは何も言わずに寝てしまうけど、今日は特別だ。それから部屋に行き、窓を開け、素っ裸でベッドに大の字になり、おばけを待った。窓から吹き込む夜風が素肌に心地よかった。

 しかし約束の時間になってもおばけは来なかった。私は少し不安になった。もうとっくに12時を回っている。予定日は過ぎてしまったのだ。しかしもう後には引けない。私は、これはきっとおばけに試されているのだと思い直すことにした。

 そこでいったんそっと部屋を出て台所に行き、レタスと櫛型に切ったレモンを取ってきて、部屋に戻った。それから一応タオルで体を拭き、ベッドに敷き詰めたレタスの上に寝転んで、レモンをほっぺたの辺りに添えて、ぎゅっと目を閉じた。

 

 五分くらい経ったころ、ふと気配を感じて目を開けると、申し訳なさそうな顔をしたおばけが突っ立っていた。

「ちこくしまして」おどおどとおばけは言った。

 うだうだ文句をつけても仕方ないので、私は許すことにした。

「ではさっそく」おばけは言いかけて、私の用意したレタスとレモンに気づくと、一瞬きょとんとしたあと、わっはっはと大きな声で笑った。私もつられて笑った。涙が出るほど笑った。

 おばけは笑いながら、わざとらしく咳払いをして、

「せっかくですからね」とレモンに手を伸ばした。

 レモンの汁は少しぴりぴりして痛かったけど、レタスはひんやり私を包んで気持ちよかった。

 

 

(五)

 

 仲の良い後輩の男が、ビルの屋上に突っ立っている。飛び降りようとしているらしい。

「先輩、頼まれてくれませんか」

 そこで僕はビルの中にある自販機へ急ぐ。

 ここの自販機ではあらゆる年齢の人に合わせた靴と遺書が、セットで売られているのだ。

 しかし今日はどういうわけか、そのほとんどが売り切れであった。後輩の年齢の棚をいちおう見てみるが、男女ともに「品切れ」のランプが点灯している。

 こんなときに何てことだと思うけれど、仕方がない。僕はポケット中の小銭を自販機に入れ、唯一残されていた十代の女の子の棚のボタンを押し、屋上へ戻る。

「本当にごめんよ」

 と言いながら僕は、几帳面に折りたたまれた青い便箋と、少し汚れたローファーを後輩に手渡す。

 後輩は大笑いしながら

「最悪ですよー」

 と言いつつ僕をちょっと小突いて、遺書と靴をビルの端に並べ、そのままビルから飛び降りて死んだ。

 帰りにもう一度自販機に立ち寄って、本当に売り切れだったかどうか確かめてみたが、やっぱり売り切れだったので、僕は安心して家に帰った。

 

 

(六)

 

 夏。夕暮れ。質素な和室。その隅に置かれた姿見の鏡。布がかけられている。

 襖が開き、少女が部屋に入ってくる。浴衣を着て、嬉しそうな顔をしている。少女はいそいそと姿見の前に立ち、かけられている布を取る。しかし鏡の中には少女の姿はない。かわりに女が一人突っ立っている。

 女は鳥の頭を持ち、体には薄い布をまとっている。首にはびっしょりと汗をかき、くちばしからは荒い息がはあはあと漏れている。どこかから急いで逃げてきたようにも見える。

 鏡の中の鳥の女は、少女を丸い瞳でじっと見下ろす。少女は戸惑いながら、じりじりと後ずさる。

 鳥の女はちょっと後ろを振り返り、それからおもむろにくちばしで鏡をつつき始める。ガラスを擦る嫌な音が部屋に響く。少女は顔をしかめて耳をふさぐ。

 女が鏡をつつくたびに、薄い布の下の大きな乳房が揺れている。少女は何となくそれに釘付けになってしまう。

 次第に少しずつ鏡にひびが入っていく。少女はそれに気づくがどうすることもできない。ただ揺れる乳房を見ながら母親のことをぼんやりと思い出している。

 ふいに少女は背後に気配を感じる。振り向くといつの間にか少女の祖母がそこに立っている。

 祖母は少女の頭を撫でながら鏡に元の布をかけ直す。鏡をつつく音がふっと消える。

 お祭り、行こうか。

 祖母はそう言って訝しげな表情の少女を抱き上げ部屋を去る。祖母が後ろ手に襖を閉める瞬間、鳥を絞め殺す物音と、鳥の断末魔が聞こえてくる。