超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

捨てられる卵

知り合いに、卵を産む女がいる。もちろん人間だ。彼女は夫に抱かれるたび、丸く、白い卵を産む。それは食べられない。食べようとしたことがあるらしい。それは孵化しない。温めたことがあるらしい。彼女は夫に抱かれるたび、丸く、白く、小さな卵を産む。それは捨てるしかない。ある日、僕は彼女を抱くことになった。夜中、彼女は駅前広場で、清楚な格好をして、僕を待っていた。首には真珠のネックレスがかけられていた。ホテルへ入り、脱ぎ、動き、終わった後、僕はテーブルの上の真珠のネックレスを見て、言った。「真珠は、君が産む卵に似ているね」彼女は何も言わず微笑み、僕がトイレに行っている間に、ホテルの部屋を出ていってしまった。それ以来、彼女には会っていない。ある朝、仕事に行くために玄関を出ると、足元に、丸く、白く、小さな何かが落ちていた。それは一粒の真珠だった。大きさを除けば、やはり彼女の産む卵に、真珠は似ている。僕はそれを拾い上げると、卵でないことを改めて確かめた。そして、また彼女を抱きたいと考えた。

重なった言葉

彼には夢があった。彼は忙しかった。彼に恋は必要なかった。そんな彼が好きだった。だから私は「好き」という言葉を口に出さなかった。ただ唇を結んで、それで微笑みを作った。それで何年も、きっと何百年も過ごした。彼は夢に近づいていった。私の「好き」はますます大きくなっていった。やがて彼の夢が、彼を迎えに来た。彼は旅立つことになった。空港に見送りに行く日の朝、渇いた喉を潤すために水を飲もうと口を開けた時、舌の上に何かが出来ていることに気づいた。それは、真珠だった。少なくとも、真珠のように見えた。それは簡単に舌から外れた。朝の光の中で、それは美しいと思った。美しいのは朝の光だったのかもしれなかったが。私はそれをポケットに入れて、空港へ向かった。彼がいた。彼の笑顔を見て、彼に私は必要ないと確信した。そんな彼が好きだった。私は彼と当たり障りのない会話をした。彼の飛行機の時間が迫ってきた。私はポケットの中から真珠を取り出した。だが、それを彼に手渡そうとして、彼にこんな物は必要ないことを思い出した。私は真珠を握りしめたまま、彼にハグをした。彼は一度もこちらを振り向くことなく、去っていった。私は空港を出て、そのまま歩き続け、海を訪れた。砂浜に立ち、握りしめていた真珠を、海へ放り投げた。波は真珠を一瞬でさらい、それはすぐに見えなくなった。きっとこの海にも、あの真珠は必要のない物だったに違いない。

贈られた愛

朝の路上で、お婆さんが、おそらく夫であろうお爺さんの首を、紐で絞めていた。場所も行動も多少意外だったが、まぁ、世の中そういうこともあるだろう。俺は交番の中から、カウンターに肩ひじをついて、それをぼんやり眺めていた。弱々しく抵抗していたお爺さんは、やがて動かなくなった。ああ、仕事か、朝から。俺はとりあえずコーヒーを淹れに給湯室に入った。たっぷり時間をかけてコーヒーを淹れ、カウンターに戻ると、お爺さんの死体の前で、お婆さんと、一羽のカラスが、何かやりとりをしていた。よく見ると、カラスは、くちばしに紙幣をくわえている。どうやら、お爺さんの死体を買いたいらしい。食うのだろう。カラスだし。しかしお婆さんはそれを拒否しているようだった。カラスは困った顔をした。お婆さんは紙幣をカラスの羽根の間に挟むと、お爺さんの死体を指さして、微笑んだ。「無料で食っていい」ということらしい。カラスは困った、だが嬉しそうな顔で、お爺さんの死体をついばみ始めた。俺はほっとしながらコーヒーをすすった。愛。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

控えめな天使

朝の満員電車に乗り込んだ。何とか席に座ることができ、ほっとしながら目を閉じていたら、ふいに、鼻先がくすぐったくなった。目を開けると、すぐ横に、一人の天使が立っていて、その背中の羽根が、俺の鼻先に触れているのだった。少し大きめな音で、鼻をすすると、それに気づいた天使が、「すみません……」と小声で言って、体勢を変えた。その後その天使は、大きな総合病院がある、というかその総合病院しかないような駅で降りていった。きっと誰か死んだのだろうと思った。その魂を運ぶのだろう。飛んでいけないのだろうか。俺は空を見上げた。空には飛行機やヘリコプターやミサイルが飛び交っていた。

壊されるラジオ

畑から悲しい音楽が響いてきた。早朝だ。農家のおじさんはふと目を覚ました。悲しい音楽だ。題名も歌っている人物の名も知らない。おじさんは布団の中で、首だけ動かして、隣で寝ている奥さんを見た。奥さんは目を潤ませて、その音楽を聴いていた。じっと。涙を拭うこともせずに。おじさんは目を閉じた。この家では、ラジオを育てている。畑にはラジオが無数に実っている。収穫の時期なのだ、今は。その時期の朝の空気と、悲しい音楽は似合いすぎてしまう。奥さんはとうとうゆっくり目を閉じた。おじさんは布団から出て、物置から金槌を取り出し、それを持って畑に向かった。あのラジオを叩き壊さねばならない。悪いのはラジオではない。それはわかっている。だが、奥さんには元気に朝ご飯を作ってもらいたいのだ。

生まれた湖

地球に聴診器を当て、その音を聴いたあと、星医者は、「だめですな」とつぶやいて、去っていった。星医者が聴診器を当てた跡は、百年後、小さな湖になった。僕らはその湖で、最後の時を過ごすことにした。

わかってる妻

夫と散歩していた。夫の車椅子を押していたら、墓地の前で、夫が「いいかな」とつぶやいた。私はうなずいて、車椅子を停めた。夫は立ち上がり、杖をついて、墓地の中に入っていった。私はその背中を見送っていた。微笑んでいた。夫が墓参りする墓石がある。それは墓地の隅に建っている。夫が手を合わせて、深々と頭を下げるその墓石には、「豆腐之墓」と刻まれている。きっと豆腐が眠っているのだろう。夫は昔、スーパーマーケットの店長をしていた。理由あって辞職したのだが、その理由をいまだに教えてくれない。だが、きっと、豆腐が関係しているんだろうとは思う。夫が顔を上げた。杖をつきながら戻ってくる。「遅くなったね」「ううん」「あの、今夜は……」「うん、わかってるわよ」そう、わかっている。夫が豆腐の墓参りをした日の夕食は、必ず湯豆腐を食べる決まりになっている。理由はわからない。教えてくれない。尋ねる気もない。わかっているのは、豆腐は、白く、つるつるしている。それは、年老いた今の私にはない要素だということだ。

無垢な飛翔体

飛行機に乗っていた。空を飛んでいた。順調に。ふいに、俺の隣の席に座っていた、穏やかな顔をした男が、折り紙を取り出した。そして、小さなテーブルの上で、何かを折り始めた。すぐに完成したそれは、紙飛行機だった。ものすごく美しい紙飛行機だった。どこまでも飛んでいきそうな紙飛行機だった。男は小さく微笑むと、立ち上がり、操縦席の方へ向かっていった。紙飛行機を、完璧な紙飛行機を持ったまま。操縦席の扉が開く音がした。閉まる音がした。それからすぐに、飛行機はゆっくりと墜落していった。落ちていく窓の外を見ると、紙飛行機が、まっすぐ向こうへ飛んでいくのが見えた。

幸せな僕ら

朝のゴミ捨て場に、男が倒れていた。死んでいた。明らかに死んでいると思ったが、やはり死んでいた。男の死体はタキシードを着ていた。幸せそうな顔色だ。ということは。左手を見た。薬指に指輪がはまっていた。やはり、花婿だ。いいなあ。羨ましい。俺も結婚したい。そこへ、カラスが一羽、降りてきた。カラスは、男の死体の左手の薬指をつつき始めた。俺は見ていた。カラスは、その指を食った。そして、指輪を外して、俺の足元に置いた。それから、何事もなかったかのように飛び去った。俺は清々しい気持ちになった。俺は指輪を拾い上げ、自分の左手の薬指にはめた。サイズはぴったりだった。そうだろうと思った。俺は待っていた。向こうから人の気配が近づいてきた。大きな気配だった。目をこらす。ウェディングドレスを着た女が、こちらに近づいてきていた。俺は笑顔になった。きっと、顔色は幸せそうだったろう。

遊ぶ人々

向かいのビルの屋上で、作業服姿の男女が、バレーをして遊んでいる。ボールの代わりに飛び交っているのは、人間の肺だ。彼らは、電機メーカーの技術者たちで、空気清浄機を開発している。彼らがボール代わりにしているその肺は、とても汚れていた。わかるようなわからないような話だな、と思いながら、俺はタバコを吸っていた。