男はかつて化学者だった。研究所に所属していたが、この男は、人間嫌いに起因するトラブルで、研究所を追われた。男は汚くて小さい自宅で、研究を始めた。それは、洗剤を開発するための研究だった。その洗剤は、月の模様を消すための洗剤だった。その洗剤を月にかけて擦れば、月の模様が消えるはずだった。洗剤がもう少しで完成する予定のある夜、男は夜空を見上げ、部屋の隅のペット用のケージに目をやった。そのケージの中では、一羽のウサギが静かに息をしていた。このウサギは、寿命が近かった。月が輝いていた。
練習する姉
初夏の朝だった。いつもは自室でアイドルの動画を観ているはずの姉が、庭に出て、朝の陽の光を浴びながらぼーっと突っ立っていた。「何してんの?」「夏だね」「うん、そうだね。何してんの?」「練習」「何の?」「んー」それから、その行為は毎朝繰り返された。姉が曖昧な返事しかしないので、家族は何も尋ねなくなっていた。やがて季節は進み、真夏になった。ある朝、いつものように庭を覗くと、いつも姉が立っていた場所に姉がいない。いつも姉が立っていたその場所には、代わりに、一本のヒマワリが咲いていた。それは姉と同じくらいの背丈だった。綺麗なヒマワリだった。練習の甲斐があったらしい。おめでとう、お疲れ。数日後、テレビをつけたら、姉が好きだったアイドルが新曲を出したという芸能ニュースが流れていた。そのプロモーションビデオで、アイドルはヒマワリ畑の中で踊っていた。そのヒマワリの中に、姉がいるかはわからなかった。たぶんいないだろうと思った。
覚える女
夏休み、お母さんと一緒に、図書館に行った。お母さんはガーデニングの本を探しに行った。僕は図書館が涼しいからというだけの理由で付いてきたので、その辺をぶらぶらしていた。すると、窓際の席に、女の人が座っているのに気づいた。すごく綺麗なお姉さんだった。お姉さんは、単語カードをめくっていた。勉強してるんだ。大人なのに。僕のお姉ちゃんが単語カードで勉強していたから、そう思った。じっと見ていたら、そのお姉さんが、とつぜん僕を見た。僕はどきっとした。本当に綺麗な人だった。お姉ちゃんとは大違いだ。「なあに?」お姉さんが僕に言った。「勉強?」僕がそう言うと、お姉さんは「ん-……」と言って微笑んだ。「そうだね、勉強かな」「何の勉強?」「理科かな」「ふうん……」僕はお姉さんにそっと近づき、単語カードに何が書かれているか覗いてみた。そこには人の名前が書かれていた。男の人の名前、女の人の名前、どちらかわからない名前、外国語の名前……。「誰の名前?」僕は尋ねた。「昔の恋人」お姉さんは言った。そして単語カードの裏面を見せてくれた。そこには日付が書き込まれていた。最近の日付、昔の日付、大昔の日付……。「これ、何の日?」僕は尋ねた。「命日」お姉さんは言った。「めいにち?」「この人たちが死んだ日」「恋人死んじゃったの?」「うん、なぜかね」そこへ、背後から僕は名前を呼ばれた。お母さんが立っていた。お母さんはお姉さんに軽く会釈をすると、強い力で僕の手を取り、僕を引きずるようにして図書館を出た。図書館を出てしばらくしてから、お母さんは後ろを振り返りつつ、僕に言った。「あの人と話しちゃだめ」「どうして?」「あの女はね、不老不死なの」「ふろうふし……」お母さんは家に帰るまでそれきり何も言わなかった。自分の部屋に入って、僕は、自分の命日のことを考えた。僕の命日はいつだろう。でも、それはいくら考えてもわからなかった。僕はそのうち、自分が永遠に死なないような気持ちになってきた。
苦しむ病人(i)
病気で入院している娘が、恋に落ちた。相手は若い看護師の男性だそうだ。お見舞いに行くたび、彼の話を聞かせてくれる。幼い頃からずっと入退院を繰り返している娘だから、恋など知らなかった。できなかったのだ。でも、そんな娘が初めて恋に落ちた。素直に応援することはできない部分もあるけれど、単純に、娘の嬉しそうな顔を見るのが、私も夫も嬉しかった。「苦しいね」娘は言った。「胸が苦しい」嬉しそうに娘は言った。私は娘の胸に、パジャマ越しに手を置いた。熱かった。それからずっと、娘は恋に悩んでいた。成就するわけがない恋なのだ。だから夫も私も苦しかった。やがて、「胸が苦しい」そう繰り返しているうち、娘の顔はどんどん嬉しくなさそうになっていった。本当に恋をしてしまったのだ。本当に恋をするということは、現実と向き合うということだ。娘はどんどん元気がなくなっていき、原因を知らないその看護師は、必死に娘を看病した。だから娘は、ますます苦しんでいった。いたたまれなかった。病院に事情を説明して、看護師を娘の担当から外してもらおうかと夫と話していたある朝、病室に入ると、娘がベッドの中で、力なく微笑んでいた。「どうした?」私が尋ねると、娘は、おもむろにパジャマの前をめくった。娘の胸に、大きな凹みが出来ていた。「溢れちゃったの」娘はそうつぶやいた。私は娘を抱きしめた。今、娘は、その凹みに、お菓子をしまっている。こっそり食べるお菓子を。看護師に叱られないようこっそり食べるお菓子だ。退院のめどはまだ立っていない。
(「カルデラ」)
獲る女
祖母が、夜、一人で家を出ていった。散歩など普段しないのに。母親に頼まれて、様子を見に行った。祖母は背中を丸めて、とぼとぼと、月明かりの道を歩いていた。いつも大人しい人だけど、何だか様子が違って見えた。祖母はとぼとぼと、だがしっかりした足取りで、海の方へと向かっていった。こんな時間に海……。私は胸騒ぎを覚え、距離を縮めた。海に着くと、祖母はまっすぐ砂浜を歩いていき、波打ち際に立った。そしておもむろに衣服を脱ぎ始めた。私は慌てて駆け寄った。「お祖母ちゃん!」祖母はゆっくりとこちらを振り返った。その目には月明かりに似た奇妙な光が宿っていた。「何してんの?」そう尋ねると祖母は海の方に向き直り、前方を指さし、つぶやいた。「あたし、あれを獲るのね」祖母が指さした先には、海面に映る満月があった。脱ぎ掛けた衣服の下は、ウェットスーツだった。そこで私は、祖母が昔海女だったことを思い出した。「あれ、って、月?」祖母は頷いた。私は祖母とともにしばらく海面の月を見つめた後、祖母の手を取り、家に連れ帰った。祖母の脳に病気が見つかったのは、翌日のことだった。
移る香り
死んだ娘の命日の前日に、その老婆は、家から遠く離れたスーパーマーケットで、万引きに失敗して、捕まった。老婆が盗もうとしていたのは、線香だった。店長と警察官に動機を訊かれても、老婆は力なく笑うだけで、何も答えなかった。店長と警察官は、老婆はまともな受け答えができない状態なのだと考えた。結局、そのスーパーマーケットに二度と来店しないという条件をつけられ、老婆は解放された。パトカーで自宅まで送り届けられたが、その車内で老婆はぎゅっと両手を握っていた。自宅に着くと、老婆は去っていくパトカーに深々と頭を下げ、パトカーが見えなくなった後、老婆は自宅に入らず、歩き出した。数分後、老婆は小さな墓地に着いた。小さな墓地には小さな墓石があった。小さな墓石の下には、娘が眠っていた。老婆は、握りしめていた手を開き、掌を墓石になすりつけた。さっき線香の箱を持った時、線香の香りが掌に少し移っていたからだ。老婆は墓石全体を撫で回すと、ため息とともに微笑み、静かに合掌した。合掌したその手からは、もう線香の香りはしなかった。
懐かしい写真
亡くなった祖母の遺品を整理していた。写真が貼られたアルバムが出てきた。「あら、懐かしい!」一緒に作業していた母が、アルバムをめくって嬉しそうに叫んだ。若かった頃の祖母や、幼かった頃の母、会ったことのない祖父や曾祖母の写真が貼られていた。その中に一枚、美しい風景の写真があった。誰も写っていない。「これは?」母に尋ねると、母は「あら、懐かしい……」としみじみつぶやいた。「これはね、太陽がダイエットを始める前の夕焼け……」私は驚いた。夕焼けの風景がこんなにも美しかったとは知らなかったからだ。その時、外から、町内のスピーカーが、夕方を告げるメロディーを流し始めた。私は思わず窓の向こうを見た。いつもの夕焼けの風景。貧弱な光。いらいらしている動物たち。私はカーテンを閉め、アルバムから写真を剥がした。そしてその写真を、散々迷った挙句、静かに破いた。母は何も言わなかった。
見つめるネコ(i)
道端にネコがいた。座って自身の影を見つめていた。野良ネコらしいとすぐにわかった。首輪の有無とか毛並みでなく、その目で、何となくわかったのだ。寂しいが、優しい目をしていた。ネコが顔を上げて私を見た。私はネコに近づいた。そのネコの額が、妙だったのだ。美しい模様が小さく、額の中央に浮き出ている。ネコの目の前にしゃがみ込み、頭を撫でる。額の模様をよく見る。そして気づいた。それは小さなステンドグラスだった。午後の日に輝いている。私はネコを抱き上げ、その額に、耳をぴったりとくっつけた。低い男の声が響いていた。言語はわからないが、何か美しい話をしていることがわかった。それで確信した。このネコの頭の中には、教会があるらしい。私はじっとその声を聴いていた。意味はわからないが、そうしたかったのだ。長い一瞬が過ぎ、やがて男の声が消えた。するとネコが、私の頬をざらざらの舌で舐めた。そこで私は初めて、自分が涙を流していることに気づいた。ネコは私の腕の中から抜け出て、先ほどの場所に戻り、再び、自身の影をじっと見つめ始めた。よく見るとその影は、人間の形をしていた。
(「ステンドグラス」)