超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

掌編集・七

(一)

 

 駅前の公園を掃除している彼女は、明け方、公園の隅で冷たくなっていた私を、ゴム手袋越しに拾い上げると、波模様のハンカチに包んで、清掃服のポケットに突っ込んだ。ハンカチの中はざらざらして冷たかった。

 昼休憩の時間、彼女は彼女以外誰もいない事務所で、食べ物のシミや卑猥な落書きにまみれた長机に弁当を広げ、その傍らにハンカチから取り出した私を横たえて、弁当と携帯とささくれた指とを順番に眺めるその合間に、時々私の髪を撫で、時々私の唇に触れた。彼女の指は長く、細くて、触れられるたびに、くすぐったい感じがした。

 やがて休憩の時間が終わると、彼女は深い藍色の鞄から、小さなノートを取り出してパラパラとめくり、真っ白なページの間に私を挟んで、再び鞄にしまい込んだ。そして、その表情を少しも崩さないまま、駅前の公園へと戻っていった。ノートの中の暗闇は、菓子と血とハンドクリームのにおいの混ざった、不思議な香りに包まれていた。その暗闇の真ん中に、冷たい体を折り曲げ、私はじっと、彼女の帰りを待っていた。そして、どうせこんなこと長く続きはしないのだから、次に彼女がこのページを開いたときに、軽く微笑んでやるくらいのことはしてやろう、とかそういうことを考えていた。

 

 

(二)

 

(灯りがつく。)

(狭く汚い部屋が浮かび上がる。)

(スーツ姿の男がコンビニ袋を手に提げてネクタイをゆるめている。)

(やにで薄汚れた壁には、カレンダーが留められている。)

(月初めのある日に女の名前が書かれてあったらしいが、今は上からマジックで黒く塗りつぶされている。)

(男は非常に疲れた顔で飯を食べ始める。)

 

(男の背後でバサリと大きな音がする。)

(男が振り返ると、カレンダーとそれを留めていた画鋲が床に落ちている。)

(男は面倒くさそうな顔でそれを壁に戻そうとする。)

(ふと異変に気付く。)

(壁が少し膨らんでいる。)

(男は首を傾げながら膨らみを押す。)

(いとも容易く膨らみはへこむ。)

(男はもう一度首を傾げてカレンダーを元の場所に戻す。)

 

 *

 

(灯りがつく。)

(狭く汚い部屋が浮かび上がる。)

(スーツ姿の男が怪訝そうな顔で立ち尽くしている。)

(カレンダーが壁から外れ、床にみすぼらしく丸まっている。)

(壁は前より膨らんでいる。)

(男は膨らみを押してみる。)

(少し堅くなっている。中に何か詰まっているらしい。)

(男はカレンダーを元の場所に貼りなおし、部屋のどこかから大家の電話番号が書かれた書類を探そうとする。)

(しかし部屋はあまりに汚く、男はすぐに諦めて飯を食い始める。)

 

 *

 

(灯りがつく。)

(狭く汚い部屋が浮かび上がる。)

(スーツ姿の男が引きつった顔で立ち尽くしている。)

(カレンダーは弾き飛ばされ、床には画鋲が転がっている。)

(壁は前より膨らんでいる。)

(そしてその膨らみのやや下方に、へそのようにも見える穴があいている。)

(男は持っていたコンビニ袋を放り出し、本棚をひきずってきて壁の膨らみを隠す。)

(大きな蛾が窓ガラスにぶつかる。男はその音にはっと振り返る。)

 

 *

 

(朝の光がカーテンの隙間から漏れている。)

(布団を頭からかぶるようにして男が寝ている。)

(コンビニ弁当が半分以上残されたままテーブルの上に置かれている。)

 

(部屋に轟音が響く。)

(男が飛び起きると、本棚が床に倒れている。)

(壁の膨らみに目をやると、それは明らかに妊婦の腹で、大きく丸く成長している。)

(男は青ざめた顔で荷物をまとめ、慌しく部屋を出ていく。)

(膨らみの中で何かが蠢いている。)

 

 *

 

(真夜中。誰もいない部屋に赤ん坊の泣き声が響く。)

 

 *

 

(灯りがつく。)

(狭く汚い部屋が浮かび上がる。)

(部屋を出ていったときの格好のままの男が立っている。)

(テーブルの上のコンビニ弁当はすっかり腐って悪臭を放っている。)

(男はおそるおそる壁に近づく。)

(壁は元通り平らに戻っている。)

(男は非常に冷静な顔で、壁をゆっくり撫でながら、携帯電話を取り出す。)

(数回のコール。男が口を開く。)

 

 ……久しぶり。

 

(その瞬間電話が切れる。)

(男はもう一度電話をかけようとする。)

(と、部屋のドアがノックされる。)

(それは小さな拳でドアを叩いているような音である。)

(男は携帯電話を握りしめたまま、いつまでもドアを振り返ることができない。)

 

 

(三)

 

 死んでしまって、道に横たわり、腐っていくことしかできない僕に少年がイヤホンを挿して、僕の何かを聴いている。

 少年は聴いているそれが、大変気に入ったようだ。目を閉じて唇に微笑みを湛えて、僕の何かを聴いている。死んでしまってからも人の笑っている顔を見られるのは、嬉しいことだと思った。

 

 次の日、少年は、少女を連れてやってきた。

 死んでしまって、道に横たわり、昨日より少し腐ってしまった僕に二人がイヤホンを挿して、僕の何かを聴いている。

 どうやら少女も聴いているそれを、気に入ってくれたようだ。二人は見つめあって、たまに指先が触れあって、それで照れたりして、楽しそうにしていた。死んでしまってからも人の笑っている顔を見られるのは、やっぱり嬉しいことだと思った。

 

 次の日も、少年と少女はやってきて、死んでしまって、道に横たわり、もう随分腐ってしまった僕に、イヤホンを挿した。桃色と水色のコードのやつを。

 ところがその日はイヤホンが挿さった拍子に腐った部分が崩れ落ち、僕の目玉が顔からころんと外れてしまった。少年と少女ははっと顔を見合わせた。

 目玉の外れた部分に風が流れ込み、鼻や耳の穴から臭い息になって漏れはじめた。少年と少女は慌ててイヤホンを耳にはめ、しばらくじっとしていたが、僕から聴こえていた何かは、目玉の外れた部分に流れ込む風の音にかき消されてしまうらしく、やがて少年は残念そうにため息をつき、少女は呆れたように肩をすくめ、二人はそれぞれのイヤホンを抜いて、僕を振り返りもせず、さっさと立ち去ってしまった。死んでしまって、道に横たわり、ただただ腐っていくことしかできない僕は、小さくなっていく少年と少女の後姿を、外れた目玉でいつまでも見つめていた。腐った涙腺から、汚い涙が溢れてくるのがわかった。

 

 

(四)

 

 最近街を歩いていると、心臓に包丁が突き刺さっている絵の横に「キャンペーン中」と書かれたポスターをよく見かけるのですが、あれ、何ですか?