超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

遠雷

(夏の坂道を、制服姿の少年が自転車で駆けている。少年の額には汗が滲んでいる)

(汗はやがて筋となり、少年の頬を伝って、地面に落ちる)

(地面に残された汗のしみは、少年の肌と同じ色をしている)

 

 

(住宅街の一角。小さな庭のある民家)

(縁側。小麦色の少女が裸で腰掛けている。夏の日差しが少女を照らしている)

(少女のお尻の下には新聞紙が敷かれている)

(少女はそわそわしながら、夏空を流れていく雲を眺めている)

(家のチャイムが鳴る。少女が振り返る。少女の母親がスリッパをぱたぱた言わせながら玄関に向かう姿が見える)

(ほどなくして母親がやってくる)

 

「ヨシダ君、来たけど」

「うん、わかった、今いく」

 

(少女が立ち上がる。新聞紙がお尻にくっついてくる)

 

「だめ、あんた、まだ乾いてないでしょ」

「あっ」

 

(母親が新聞紙を剥がすと、そこに半透明のお尻が現れる。新聞紙には、生乾きの小麦色のペンキが残っている)

 

「いいよ、別に、こんなとこ、見せるもんじゃないし」

「でも、あんた、今ちゃんと塗っておかないと、むらになるよ」

「……いいよ、あとで、塗りなおすから」

「だから、早起きして準備しときなさいって言ったのに」

「うるさいなぁ」

 

(少女は居間の隅に用意しておいた洋服を着はじめる)

(縁側の隅には、ペンキの缶が置かれている。ラベルに、麦藁帽子をかぶった少女のイラストが描かれている)

(母親はそのペンキ缶を何となく眺めながら、自らの白い腕を二度三度さする。乾いた音がする)

(いつの間にか着替えを終えた少女が、バッグの中身を確かめながら母親に問いかける)

 

「ねえ、服、変じゃない?」

「大丈夫大丈夫。かわいいかわいい。あ、ほら、襟。……海には行くの?」

「行かない、たぶん」

「あ、そう。夕立には気をつけなね。天気悪くなるってよ、午後から」

「わかったわかった」

「あっ、お金、無駄づかいするんじゃないよ」

「わかったって、もう」

 

(少女はバッグを掴み玄関に向かう)

 

 

(母親は二階に上がり、奥の部屋のドアを開ける)

(黴っぽい湿った空気が廊下に流れてくる)

(部屋の中では、古ぼけた家具に囲まれたベッドの上で、何かが静かに眠っている)

(母親は部屋に入り、カーテンをそっと開ける)

 

(窓の外に坂が見える。少年の自転車に乗った少女が、その坂を立ち漕ぎでゆっくりのぼっていく。少年は走ってそれを追いかけている)

(母親は微笑みながらその様子を見送る)

(空には巨大な入道雲がそびえている。風が吹いて風鈴を鳴らす)

(と、背後で唸り声が聞こえる。母親が振り返ると、ベッドの上で、色あせた寝巻きに包まれた半透明の老婆が、眠りながら眩しそうな顔をしている)

(母親は小さく息を吐き、カーテンを閉め、部屋を出ていく)

 

 

(階段をおりるとき、一匹の蚊が母親の首に止まる。母親はそれをぴしゃりと叩き潰す)

(母親が何気なく手を見ると、潰れた蚊の周りに、剥がれた肌色の塗料がこびりついている)

(母親は何も言わず、もう一度首に手をやり、塗料の剥がれた半透明の首の肉を、ゆっくりと撫でる)

(遠雷の音がかすかに聞こえる。母親は立ち止まり耳を澄ます。しばらくしてもう一度遠雷の音、そしてそれに呼応するように、背後の部屋から聞こえる老婆の唸り声。母親はちょっと立ち止まり、再び首を撫でながら、ゆっくりと階段をおりていく)