超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

紅葉の栞と象の小屋

 毎日夕方になると、近所の通りを、白い象がのしのしと歩いてくる。象は派手な化粧をして、棒キャンディーをくわえている。首にはきれいな女の人の写真が何枚もぶら下がっている。
 象を引いているのはよぼよぼのおじいさんで、象の背中に乗っているのは血色のいいおじさんたちだ。おじさんは皆口髭を生やした猿みたいな顔をしている。
 象はゆっくりと通りを歩き、大きな木のある曲がり角の向こうに消えていく。
 角を曲がった先には、僕のお袋のいう「オトナのお店」がある。ときどき貧相な格好の学生が周りをうろうろしては、象に蹴散らされていたりする。
 僕の家は「オトナのお店」のすぐそばでラーメン屋を営んでいて、僕は小さい頃から出前で「オトナのお店」に出入りしていた。友達はうらやましがったが、店内の様子は、ちんちんとおっぱいと酒と灯りでごちゃごちゃしていて、正直なところなんだかよくわからなかった。しかし帰り道に、通りの両端のドブから、いい匂いのする熱い湯気が噴き出していたことと、店の庭の隅にある簡易便所の陰で、象を引いているおじいさんが何かにお祈りを捧げていたことは、妙に頭に残っている。

 ある日、同じクラスの中村さんが、「オトナのお店」に売られるらしい、という噂が流れた。
 中村さんは僕の隣の席に座っていて、いつも分厚い文庫本を読んでいた。表紙にはカバーがかかっていて中身は何だかわからなかった。本を読むときの中村さんには、栞を唇で挟むという癖があって、栞に描かれた紅葉の絵の赤色が、中村さんの薄い唇とグラデーションになっているのがきれいだった。
 中村さんが「オトナのお店」に売られてしまうらしい、という噂を聞いてから、クラスは静かに色めき立ち、噂が噂を呼んで収拾がつかなくなっていた。中村さんは我関せずといった感じで、一方僕は変に色々考えてしまい、きっとあの本を読み終えたときに中村さんはいなくなってしまうのだ、と勝手に思いこむようになっていた。だから毎日、紅葉の栞が最後のページに少しずつ近づいていくのを見るたびに、胸が苦しくなった。
 しかし、まだ栞が最後のページに至らないうちに、中村さんはあっさり学校を辞めてしまった。

 中村さんが学校に来なくなってから、僕は出前の注文が入っても、何だかんだ理由をつけて「オトナのお店」には近づかないようにしていたのだが、ある日どうしても人手が足りなくて、出前に行くよう頼まれた。仕方なく岡持を提げて角を曲がると、久しぶりに嗅ぐ湯気の香りに頭がくらくらした。
 店に着き、ラーメンを置いて帰ろうとしたとき、玄関から延びる長い廊下の突き当たりのドアが開いていて、そこから見える店の裏庭に、暗く肥った影がそびえているのに気がついた。玄関から裏庭に回り、影に近づくと、それは象をつないでおく小屋だった。
 夕闇の中で、象は化粧を落とし、ひびわれた皮膚を藁の上に横たえて、すやすやと眠っていた。小屋の奥は倉庫を兼ねているらしく、空の水槽とか長靴とか、マッチ箱とか、何か動物の皮のようなものとか、そういうガラクタが積まれて山になっていて、まるで象の影が厚みを持って寝ている象の背中を支えているように見えた。
 象の頭を撫でてみたくなり、小屋に足を踏み入れた。小屋の中は薄暗かった。
 徐々に暗闇に目が慣れてくると、象とガラクタの山の間に、白いタオルが敷いてあり、その上に鏡とハサミ、それから文庫本が置かれているのに気がついた。本からは紅葉の栞がはみ出ていた。栞の位置は、最後に学校で見たときから全然動いていなかった。
 何となく居心地が悪くなり、小屋を出ると、店の廊下から裏庭に降りてきた中村さんとばったり会ってしまった。ずいぶん薄着をしていた。さらさらした布の下に、柔らかそうなあばらが透けていた。僕はうろたえたが、中村さんは別に驚いているでも怒っているふうでもなく、何か当たり障りのない話をしたあと、とつぜん僕の手を取って小屋の隅に引っ張りこんだ。そこで僕は女の子のおっぱいに初めて触れた。中村さんのおっぱいには棒キャンディーのタトゥーが入っていた。おっぱいはやたら熱かった。熱かった。熱かった。中村さんは少し笑って、僕の手をおっぱいから引き離すと、タオルの上の鏡とハサミを手に取り、また店の中へ消えていった。
 残された僕は残された文庫本を拾い上げ、栞の位置を、少し最後のページに近づけた。そうするのがいいと思った。それから岡持を持って、何事もなかったかのように店をあとにした。

 それから「オトナのお店」に出前に行くたび、僕は中村さんに会いに象の小屋に立ち寄った。中村さんの髪はすっかり短くなり、別人みたいだった。もうおっぱいは触らせてもらえなかった。本はちっとも読み進められていなかった。僕は中村さんと小屋の隅で当たり障りのない話をして、そのうち中村さんが店の人に呼ばれて小屋を去るのを見届けたあと、本の栞を動かしてから帰ることにしていた。最後のページに至らないように、少しずつ慎重に本をめくった。そうするのがいいと思っていた。

 しかし、そのうち、小屋に出向いても中村さんと会える回数は少なくなってきて、僕が学校を卒業する頃には、白いタオルも片づけられてしまった。本は半端なページに栞を挟んだまま、ガラクタの山の一番上に積まれた。
 僕は自分でも意外だったけど、そのことについて、特に何の感想も抱かなかった。後から慌てて「寂しいな」と日記に書いたが、本当のところは、ただ、そういうものなのだろうとボンヤリ考えただけだった。

 今でも毎日夕方になると、近所の通りを、白い象がのしのしと歩いてくる。象は派手な化粧をして、棒キャンディーをくわえている。首にはきれいな女の人の写真が何枚もぶら下がっていて、その中には中村さんもいる。澄まして微笑むその顔は、とても同い年とは思えない。おっぱいは今も熱いのだろうか。
 知らない。