超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

蛸と毛

 放課後、誰もいなくなった体育館で一人、部活の後片づけをしているとき、ボールや跳び箱がしまわれている倉庫の隅に、蛸がいるのに気がついた。変な音がするなと思ったら蛸だった。天井や壁には這った跡らしいぬるぬると光る線が残っていた。
 蛸のいる辺りの壁には、鉛筆か何かで文字が書かれていて、それは蛸の粘液で滲んでしまって何と書いてあるのかわからなかったが、たぶん蛸の名前なのだろうと思った。ふと蛸と目が合った。蛸の目は、前に図鑑か何かで見たときよりも、すごいデザインだと思った。機械の部品のようにも、それ自体が最先端の機械のようにも見えた。
 蛸はこちらを見つめたまましばらくじっとしていたが、やがてそろりそろりと丸い頭を前後に動かしはじめた。そしてそのたびに、すふすふ……という感じの音がした。どうも何かを食っているらしかった。倉庫の電気を点けると、蛸は急に明るくなったことにまた驚いて動きを止めた。半開きになった蛸の口の中に、何か黒い、毛の塊のようなものが、かみ砕かれて舌に張り付いているのが見えた。
 その毛の塊には見覚えがあった。何だったかのか思いだそうとしているうちに、蛸はそれをごくんと飲み込んで、満足そうな声で鳴いた。イメージより甲高い声だった。敵意も感じなかったので、そのままにして倉庫の扉を閉めた。

 次の日は授業の前に全校朝礼があった。校長が壇上に立ったとき、あの毛の塊のようなものが何だったのかを思い出した。校長は頭に包帯を巻いた姿で、生徒の前に現れた。頭に巻いているというより、包帯の帽子で頭部をすっぽり覆っているという感じだった。頭にはボリュームがなかった。校長は昨日怪我をしてとかそんなことをさっと言ったが、包帯の下で何が起きているかは生徒全員がすぐに理解し、私は昨日蛸の口の中に溶けていった毛の塊のことを頭に浮かべた。
 その日の授業中、突然放送で学年主任たちが呼び出され、いくつかのクラスが自習になった。放課後、部活の準備のために体育館に行くと、「本日使用禁止」の張り紙が、冷たく重い扉に張られていた。壁の向こうから、物音はしないけれど、慌ただしく何かごちゃごちゃ行われている雰囲気が伝わってきた。仕方なくその日はまっすぐ家に帰った。途中商店街を通ったが、魚屋の前は早足で通り過ぎた。店先の白いポリバケツの下に、潰された臓物のようなものがはみ出ていた。

 次の日の放課後、誰もいなくなった体育館で一人、後片付けをしているとき、そういえば蛸のことを思い出し、倉庫に向かった。
 中に入ると、物の並びは一昨日と少しも変わっていなかったが、蛸の気配が消え、殺気のかすみたいなものがそこここに残っていた。電気を点け、蛸のいた場所を見ると、砕かれた黒っぽい肉の欠片が、壁や床にこびりついていて、大きな蝿が何匹もたかっていた。蝿がそこいらを飛び回ると大きな音がした。壁の落書きはすっかり消されていた。家に帰ってから、あれは名前ではなかったのかもしれないと思った。それから、あのすごいデザインの目はどこにいってしまったのだろうと思い、用具入れの下などを軽く見ておけばよかったと後悔した。