海辺の小さなアパートに、女が住んでいた。
女は毎日、朝から晩まで、砂浜に腰かけて海を眺めていた。
女の肌には色がなかったから、夕暮れには女は夕暮れの色に、夜には女は夜の色に染まった。
ある日通りすがりの少年が、潮風の中に甘い香りを嗅いだ。それは砂浜に腰かける、あの不思議な女から漂っているようだった。
少年は女に声をかけた。何をしているんですか?
女は少し怒ったような顔で少年を振り返り、あなたを待っていたのよ、と答えて笑った。
女に手を引かれるまま、少年は女の部屋に入った。ベッドと旅行鞄のほかに何もない殺風景な部屋には、あの甘い香りが満ちていた。
その日少年はその部屋で、女に煙草と、林檎の剥き方を教わった。
女と少年は毎日、二人で海を眺めて過ごした。日が沈み、少年が家に帰る時間になると、二人は部屋の前で、名残惜しそうに触れ合った。色のない女の肌は、少年が触れると月明かりの下で少し赤らんだ。少年はそのことに気を良くしていた。
しかしある晩女は言った。そろそろ行かなきゃいけないの。
その晩、ベッドの上で少年は、汗の滴る女の背中を、少したくましくなってきた腕で抱きながら、女の胸に耳を当てた。むせかえるような甘い香りが二人の動きに合わせて揺れるたび、女の胸の奥から、しゅわしゅわと、小さな泡の弾ける音がした。
サイダーよ、と女が耳元で囁いた。少年はただ小さく頷いた。
少年は心地よい疲れに包まれたまま、ベッドで一人、目を閉じた。そしてそのまま眠りにおちた。次に目を覚ましたとき、月の差し込む部屋からは、旅行鞄はもう消えていて、少年の腕の中には、一本のガラス瓶が残されていた。
朝になって、少年はシャツを着て、女と出会った砂浜へ行ってみた。穏やかに揺れる波に向かって、女の小さな足跡が点々と続いていた。