超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

掌編集・六

(一)

 

 夕方、職のない男が部屋で寝ている。ノックの音がする。男はしぶしぶ立ち上がる。

 男はドアの外に声をかける。反応はない。男はささくれた指でドアノブを回す。扉が開く。丸太のようなものが飛んできて男の胸を貫く。

 男はそのまま間抜けな顔で息絶える。丸太のようなものが刺さったまま男はゆっくり玄関から引きずり出される。それは巨大な箸である。

 

 男の住んでいたアパートの屋根の上に、歯の生えた暗闇がふわふわ浮かんでいる。

 男を刺したまま箸はひょいと空に浮かぶ。そしてそのまま歯の生えた暗闇の中に吸い込まれる。夕暮の住宅街の片隅で暗闇が、くちゃくちゃと品のない音を立てて男を咀嚼しはじめる。

 

 やがて歯の生えた暗闇は箸をぷっと吐き出す。ひび割れたコンクリートに漆塗りの巨大な箸が放り出される。

 電信柱のカラスたちが一斉に箸に集まって、こびりついた肉を器用に平らげる。出遅れた一羽のカラスがいる。恨めしげに屋根の上に目をやる。

 町の空を覆い始めた夜の闇の中に、白い歯だけが不気味に光っている。街の家々に明かりが灯る。漏れた光が歯を照らす。どこかでノックの音がする。

 

 

(二)

 

 夜寝ているとき、誰かに手を、ベッドの外へ引っ張り出されたような気がした。

 朝目覚めたとき、ベッドからはみ出した指先に、かすかな重みを感じた。見ると私の中指で、小さな人が首を吊っていた。

 

 

(三)

 

 グラスに注いだ安酒に、いつの間にか赤い唇が浮いている。木の実の匂いの息を吐き、異国の言葉をしゃべっている。

 誰の唇かは知らないが、何だかいい感じがする。追い出すこともない。私は落ち着いてグラスを傾け、酒を流し込む。その拍子に赤い唇が少しだけ、私の唇に触れる。

 途端に赤い唇が、大声で私を怒鳴りつける。何を言っているのかはわからないが、とても怒っているらしい。あたふたしているうちに、とうとう赤い唇は、トプンと軽快な音を立て、グラスの底へ潜ってしまった。

 私はグラスを指で叩いて、底でへの字になっている赤い唇のご機嫌を伺う。赤い唇はそっぽを向いている。わずかに開いた隙間から、小さな泡が一つ二つと浮かび、生ぬるい酒の中に溶けていく。

 どうしたものかな。少しだけ木の実の匂いがする酒を一口すすり、私は所在なさげに、テレビのスイッチを入れる。

 

 

(四)

 

 袋にお湯をそそいで、父と母と、それから今回は、弟も作ってみる。“三分で完成!”とパッケージには書かれてあるが、理由あってここはあえてしばらく放置してからお湯を切る。

 

 十分後、袋の口を切ると、中から醜くぶよぶよに肥った父母と弟がのそのそと這い出してきた。

 よし。これでいい。計算通りである。

 

 みんなで写真館に行き、記念写真を撮る。出来上がった写真を見てみると、案の定家族の中で僕が一番痩せていて、僕が一番美しい。実は、前回は馬鹿正直にきっかり三分でお湯を切ってしまったせいで、家族がみんな美形揃いで、非常に悔しい思いをしたのだ。その点、今回は楽しい家庭が築けそうである。今、僕はとても機嫌がいい。機嫌がいいのは良いことである。

 

 

(五)

 

 夕方の児童公園。小学生くらいの少年が独り、ぶらんこに座って、指のささくれを剥いている。

 遠くから足音が近づいてくる。少年は顔を上げる。彼と同い年くらいの美しい少女が、パンを入れたビニール袋を提げて、公園の隅の繁みの奥へ入っていく。少年は何となく少女の後を追う。

 繁みの奥は妙に開けた草っ原になっていて、そこに一頭の年老いた象が横たわっている。少女は象の頭や体をじっくりと労わるように撫でたのち、袋からパンを取り出して象の口元へと運ぶ。

 錆色の舌が伸びてパンに絡みつき、やがてにちゃにちゃと咀嚼する音が響く。パンを飲み込みながら年老いた象は、涙を流して少女を見つめ、長い鼻で少女を抱きしめる。

 少年は木陰でその光景を見ながら、ささくれの肉から垂れる血を舐めている。

 

 夜の児童公園。公衆便所の個室。折れたモップを握りしめた少年が肩で息をしながら、切れた唇を指で拭っている。少年の体や衣服には激しく争った痕が残っている。

 少年の足元には和式便器があり、象の鼻先だけが見えている。

 少年はそれを一瞥し、水洗のペダルをぐいと踏む。

 ぐずずずぐずずず

 という音ととともに、象の鼻が便器の奥へと吸い込まれていく。

 

 夕方の児童公園。繁みの奥の草っ原で、少女がわんわん泣きながら、パンを握りしめて立ち尽くしている。少年は木陰でその光景を、ぽっかりと穴が開いたような表情で見つめている。

 

 春の日の夕暮れ。住宅地を二分するどぶ川のほとり。中学の学生服を着た少年が指のささくれを剥きながら、とぼとぼと歩いている。川を挟んだ向こう側のほとりを、セーラー服を着た少女が携帯をいじりながら、すたすたと歩いてくる。

 二人は互いに互いの存在には気づかない。しかしすれ違う瞬間にふと、二人の間を流れるどぶ川にちらりと目をやる。どぶ川の底には、すっかり朽ち果てた象の骨が沈んでいる。