超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

海の断章

 旅行先で海の欠片を拾った。持ち帰って窓辺に飾ってみた。

 窓から風が吹き込むたびに、海のない町の我が家に、潮の香りがひろがっていく。その潮の香りの中にうっすらと、外国の酒の匂いが混じっているときもある。

 

 

 眠るときは海の欠片を枕元まで持ってくる。波の音が聞こえる。懐かしい歌でも聞いているような気持ちになってきて、ぐっすりと眠ることができる。

 夢の中で私は、ピアノを弾いている。どの鍵盤を叩いても波の音しか出ない。

 

 

 退屈な午後には海の欠片に指を突っ込んでみる。通りすがりの魚たちが指を、軽く噛んでじゃれついてくる。じっとしていると手の甲にかもめがとまり、しばらく羽を休めていったりもする。

 ある雨の日、生ぬるい波に揉ませるがままにしていた小指に何かが絡みついた。引き上げて見るとそれは、海水でぐずぐずにふやけた若い女の写真の切れ端だった。写真には顔の上半分だけが写っていた。気の強そうな目をしている。時計の針のようにまっすぐ尖った眉が印象的だった。私はそっと写真を海に返した。ゆらゆらと揺れながら彼女は海の底へと戻っていった。

 

 

 月の明るい晩には、いかだで家出してきた少年達が海の欠片に迷い込んできたりする。冒険心に溢れる少年達は海の欠片をとび出し、私の部屋に上陸して、小さな足跡をあちこちに残していった挙句、目覚まし時計にいたずらを仕掛けた。きっかり七時にセットしておいたはずなのに、その朝はアラームが鳴らなくて、私は会社を遅刻してしまった。

 上司にねちねちと文句を言われたので、帰宅してから腹いせに、海の欠片にそのことをぼやいたら、銀色の魚が小さく跳ねる波間を伝って、私の声は彼らに届いたらしい。翌朝目覚めると、目覚まし時計の盤面がぴかぴかに磨かれていた。

 

 

 天気の良い日には、海の欠片をノートに挟んで散歩に出かける。歩いているうちにふと良い詩が浮かぶことがある。慌ててペンを構え、ノートを開く。すると、海の欠片がきらめきながら笑っているのが目に飛び込んでくる。その笑顔を見ていると、さっき浮かんだ良い詩が、とてもちっぽけなものに思えてくる。海の欠片を挟んだノートはいつまでも真っ白なままだ。