超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

桃と水槽

(昼下がりの、狭い部屋。あなたと私が、テーブルを挟んで座っている。)

(ここはあなたの部屋で、私は何かの用事があってここを訪れた。テーブルにはお茶や煎餅が置かれている。)

(部屋にはガラス戸があり、その向こうにはベランダがある。そして、そのベランダの隅に、空っぽの水槽が見える。)

 

「あの水槽は?」

「あっ……こないだまで、これ飼ってたんです」

 

(あなたは携帯を取り出し、私に写真を見せる。)

(写真には水槽に入った女の首が映っている。)

 

「仕事の帰りに、拾ったんです。家の前の街灯の下に、何か落ちてると思ったら、これで……このくらいの」

 

(あなたは手振りで、女の首の大きさを示す。)

 

「きょろきょろしたり、鼻をすすったりして、何だか所在なさげでした。だからちょっと気になって……そしたら、目が合ったんです。……思わず会釈しちゃったんですけど」

 

(あなたはちょっと笑う。)

 

「でも、何の反応もなくて……というより、そもそも私のことは見えていないみたいでした。……でも、そのままにしとくのもアレだから、ひとまず拾って、家で飼うことにしたんです。……その時、家に、空っぽの水槽があることを思い出したんです」

「あの水槽ですか」

「そうです。確かずいぶん前に、何かを飼おうとして、どこかで安く買ってきたんですけど、何かあってそのままベランダに置きっぱなしになってて……まぁ、そういう全体的にぼんやりした水槽なんです。そこに入れておこうと思いました。何となくそうするのがいい気がして……」

 

(私はお茶を一口飲み、あなたは個包装された煎餅の一つを手に取る。)

 

「……彼女は一日中、虚空を見つめていました。そして街灯の下にいた時と同じように、所在なさげに、目をきょろきょろ動かしたり、しきりに鼻をすすったりしていました。私が耳元で何を言っても、目の前で何をしても、感知していないようでした。一番困ったのはご飯のことです。何を食べるのかがよくわからなかったんです。私たちと同じものを食べる気もするし、全然違うものを食べる気もするし……とりあえず水をやってみたんですけど、全然口をつけなかった。米も肉も野菜も。……目の前にある食べ物が、やっぱり目に入っていないようでした」

 

(あなたは袋に入ったままの煎餅を細かく砕く。)

 

「でもある晩……このまま衰弱されても気分が悪いな、ってそんなこと考えながら……桃、食べてたんです。デザートに。剥いて。そしたら、水槽の方から視線を感じたんです。まさかと思ってそっちに目をやったら、彼女が物欲しそうに私の方を見てたんです」

 

(あなたは煎餅の小袋の口を開ける。大きな音がする。)

 

「試しに桃を持ったまま近づいてみたら、彼女は鼻をひくひく動かして、下唇を軽く突き出しました。私はそっと桃を彼女の口の前に差し出しました。彼女は大きく口を開け、桃の一切れに歯を立てて、私の手から奪い取るように、それを勢いよく吸い込みました。こうやって……」

 

(あなたは煎餅の欠片を口にくわえ、吸い込もうとする。)

 

「……まぁ、これだとちょっとうまく出来ないですけど。……とにかく、彼女は桃を食べました。ちゅるん、という音がして、水槽のガラスに果汁が飛びました。それから私は毎晩、桃を剥いて、彼女に与えました。これをきっかけに何か、コミュニケーションがはかれるかもしれないとも思っていました。しかし彼女は、桃を食べる時以外はやっぱり、ずっとぼんやりしていました。私は気長に待つしかないと、ただひたすら桃を剥き続けました」

 

(あなたは煎餅を口に放り、ばりばりと噛み砕く。)

 

「……ところが二週間ほど経ったある晩、私が家に帰ると、玄関のドアの前に、首のない女と、その母親らしき女が並んで立っていました」

 

(私はお茶を飲み干し、ベランダの水槽に目をやる。)

 

「私は何も言わず家のドアを開け、何も言わず女の首を水槽から取り出し、何も言わず母親らしき女に手渡しました。母親らしき女は何も言いませんでした。首のない女は何か言いたげでしたが何も言いませんでした。私達は玄関先でしばらく何も言わずに突っ立っていました。遠くで風が鳴きました。私は女の首と自分の指が、桃の果汁でベタベタしていることに、そこで初めて気がつきました。風呂に入りたいと思いました。私は家の中に戻ることにしました」

 

(あなたは私のコップにお茶を注ぐ。)

 

「玄関のドアを閉める直前、おかげで桃を剥くのが速くなりました、という言葉が私の口をついて、とび出しました。母親らしき女はわかったような、わからないような顔をして、小さく会釈しました」

 

(私は、ベランダの水槽の底に、何かの跡が輪状に残っているのをぼんやり眺めている。)

 

「一人の生活が戻ってきました。水槽はそのままにしておこうと思いました。何となくそうするのがいい気がして。でも、ガラスにこびりついた桃の果汁に、小虫が集まってきてしまったので、とりあえずしっかり洗って、ベランダに干しました。水気が乾いたら、部屋の中に入れようと思ったんです。でも……何か……」

 

(私は新しくお茶の注がれたコップを手に取り、続きの言葉を待つ。)

 

「……」

 

(あなたは何も言わず、ただ照れたように笑う。)

(私は曖昧な顔で頷き、お茶を飲み干す。)