超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

Here Comes The Sun ver.2

 「作業場」の上に広がる夜空に、金具を動かす乾いた音が響いている。
 鉄くさい僕の指には、流れ星を動かす金具が握られている。
 誰かが金具で動かしている夜霧が、ひんやりと肌に心地良い。

 僕は夜空を見上げ、金具から手を離す。金具は元の位置に戻り始め、夜空のふちには流れ星が現れる。
 尾を引いて消えていく流れ星を目で追っているうちに、僕のまぶたは重くなり、眠気が全身に忍び寄ってくる。
 「作業場」のどこかから、ゆっくりと金具を動かす音が聞こえてくる。

 金具を動かす乾いた音がやむ。僕のまぶたはゆっくりと開く。
 「作業場」の上に夜空が広がっている。
 そして僕はかすかに痺れる指で、目の前の金具を握る。

 ある日僕は「作業場」から逃げ出した。
 誰にも気づかれなかった。
 みんな自分の金具を動かすことに夢中なのだ。

 僕は走った。
 誰かが金具で動かしている夜が終わり、誰かが金具で動かしている朝がやってきた。
 誰かが金具で動かしている海を横目に、誰かが金具で動かしている風を身にまといながら、僕は、僕だけの力で、誰かが金具で動かしている太陽に祝福されながら、僕だけの汗を流して、僕は走った。走りながら、僕だけの力で僕は笑っていた。笑って、走って、走って、笑って、走り続けた。

 やがて誰かが金具で動かしている月が夜空にのぼる頃、僕はどこかの道の上に倒れた。誰かが金具で動かしている小川が、目の先で光の粒をまき散らしていた。誰かが金具で動かしている大きな野良犬が、月桂樹の茂みの陰で寝息を立てていた。
 大の字に寝転び、誰かが金具で動かしている夜空の星々をぼんやりと眺めているうちに、僕のまぶたは重くなり、眠気が全身に忍び寄ってきた。
 静かだ。

 僕の金具を動かしていた人の顔を思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
 さようなら。僕だけの力で、僕はつぶやいた。
 夜空のふちに流れ星が現れ、尾を引いて消えて、僕は二度と目を開かなかった。

two of us

 リエは凛としてリボンを結ぶ。
 リエは凛として荷物を運ぶ。
 リエは凛として妹を抱き上げる。
 リエは凛として地図を広げる。

 リエは寝床で鼻をかみながら、スケッチブックにまだ見ぬあの港町の絵を描く。

 リナは理由なく笑い出す。
 リナは理由なく涙をこぼす。
 リナは理由なく井戸を覗く。
 リナは理由なく糸をつまんで、リエのリボンをほどいている。

 リナはリエの背にもたれ、ぐらぐらする歯をいじりながら、港町の空を草の汁で塗りつぶす。

くらげの看護婦さん

 真夜中の水族館、くらげの看護婦さんが、水槽の柔らかい砂の上をとことこと歩いていく。
 年老いた鮫の腹の音を聞くための聴診器と、絵を描くことが趣味の蟹の子のための点滴のパックと、マンボウのお母さんに飲ませるためのカプセルを詰めた鞄を片手に持って、温かい砂の上をとことこと歩いていく。

 水族館はもうとっくに閉まっていて、大ガラスの向こうには誰の姿も見えない。
 ひっそりと静まり返った薄闇が、ねばついているように見えるのは、昼間の混沌が沈んでいるからだろうかと、くらげの看護婦さんはぼんやり考える。
 そしてふいに東京に初めて来た日のことを思い出す。駅の汚い床、朝から降り続けていた雨、見知らぬ他人の群れ、それから……。

 ぼんやりとしていたくらげの看護婦さんは蛸壺につまずく。咄嗟に鞄をかばうように抱え込んで倒れたくらげの看護婦さんを、柔らかい砂は優しく受け止め、擦り傷一つなく彼女は立ち上がる。
 眠らない魚たちはくらげの看護婦さんに微笑み、彼女は照れくさそうに会釈して再び歩き始める。
 鼻の頭にくっついた砂を指で拭う時、彼女はかすかに潮の香りを感じる。
 可愛いお尻に、寝ぼけた蛸がぶら下がっていることには、まだ気づいていない。

影と殺虫剤

 病院の待合室でぼーっと座っていたら、壁にかかった私の影の胸の辺りが、少しずつほどけて、壁の中から誰かが出てきました。
 怖くて動けなかったので、通りかかった看護婦さんに泣きついたら、影のほどけたところに殺虫剤をかけてくれて、そうしたら影が元に戻って、胸もすっとしました。
 待合室に小さな拍手が響いて、看護婦さんは照れたような顔をしていました。

Girl

 照明が焚かれ、遥の肌があらわれ、遥の鼻があらわれ、遥の歯があらわれ、遥の羽があらわれる。

(客席はめらめらと燃えている。)

 ショーが始まり、遥は舞台をぶらぶら歩いていって、はるかの果てに腰を降ろす。

(客席はしんと静まり返っている。)

 照明が消え、はかない肌が消え、はかない鼻が消え、はかない羽がたたまれ、遥の話は忘れられる。

 ショーが終わり、遥は舞台をぶらぶら歩いていって、はるかの果てに恋を捨てる。

抜け殻

 部屋の隅に抜け殻を残して、恋人が去ってしまった。

 カサカサの恋人の抜け殻を、そっと壁に立てかけた。

 夜までぼんやりと空を眺め、爪を切り、そうしたらもうすることがなくなったので、一人布団に潜り、抜け殻を眺めながら眠ることにした。

 抜け殻の足の方にかすかに溜まった恋人の声が、寝入りばなの耳にさびしく聴こえる。