超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

イエローサブマリン

 海にぷかりと浮かんで、ぼんやりと太陽を眺めていたはずだったのが、気がつくと俺のへそからは潜望鏡が生えていて、わき腹には丸い窓がいくつも取り付けられており、そこに集まって目を輝かせている子どもたちと、骨を伝わって聞こえてくる彼らの笑い声、ご機嫌な顔で笑うサンタクロースみたいな船長が舵を切ると、かちかちにこわばった体がぐっと深海に沈み、怪獣みたいな魚に鼻をつつかれていた。ほんの数時間前まで、たまの家族サービスに近場の海へやってきただけのサラリーマンだったのに、今じゃ俺の腹の中で子どもたちがビートルズを合唱している。少し急すぎる気もするが、こうなるのが運命ならば受け入れよう。地上に残してきた女房と子どもが気がかりだが、俺にはもうさよならを言う口も残されていないんだ。悪いね、愛してるよ。

おたま

 夜空の星を眺めていたら
 とつぜん巨大なおたまが現れ
 ひときわよく光っていた一つの星を
 すっとすくい上げてそのまま暗闇へ消えていった

 食べ頃だったからなのか
 それとも煮えすぎだったからなのか
 理由はわからない

 だがせめて
 前者であってほしいと思う
 そしてできれば
 ぴかぴかのうちに食べてほしいと思う
 さらにできれば
 何もつけずプレーンのままでいってほしいと思う

 夜空の底から
 星を眺めることしかできない身としては
 そう思う

逆上がり

 廃校が決まった小学校の、真夜中の校庭で、古ぼけた人体模型が、逆上がりの練習をしている。邪魔にならないようにと傍らに並べられたプラスチックの臓物が、月明かりに照らされておかしな形の影を伸ばしている。人体模型はぎゅっと鉄棒を掴む。インクで描かれた筋肉に力が入り、滲むはずのない汗が額に滲む。人体模型は一気に地面を蹴り上げる。しかし、脚は空を切り、彼はその場に尻もちをついてしまう。くそ、もう一度だ。

「ここはすぐに取り壊されるらしいから、そうなる前に、一緒に遠くへ逃げよう」
 この学校に搬入された日からずっと思いを寄せていた美術室の胸像にそう告白したら、
「じゃあ逆上がりをマスターできたら考えてあげる」
 と言われたのだ。

 胸像は、ずっと昔、この美術室で告白した男の子が、相手の女の子にそう言われていたのを思い出し、その場しのぎの冗談のつもりでそう答えたのだ。しかし、人体模型は本気にしてしまった。逆上がりなら、やり方はわかる。理科室の窓からずっと校庭を眺めていたんだから。きっと簡単だ。それから人体模型は毎晩、胸像には内緒で、逆上がりの練習に励むようになった。内緒にしているのは、胸像をびっくりさせてやろうという腹づもりらしい。人体模型は立ち上がり、お尻についた砂を払い、ぎゅっと鉄棒を掴む。胸像の美しい横顔をプラスチックの脳に浮かべ、一気に地面を蹴り上げる。だけどやっぱり、ちっとも回らない。おかしいな。本当に、やり方はわかっているはずのに。人体模型は首をかしげ、もう一度鉄棒を握りなおす。

 ……その一連の姿の頼りないこと。
 それにもし逆上がりをマスターできたとして、ぎしぎし軋むお前の腕と脚で、石膏の胸像を抱えてどこへ逃げようというのか。
 そして、逃げた先にどんな暮らしが待っているというのか。

 そんなことお構いなしで、人体模型は逆上がりの練習に精を出している。一晩中尻もちをつきながら、時折美術室の方に目をやって。

 同じ頃、胸像は美術室の壁に貼られたモナリザのレプリカと、世間話に花を咲かせている。モナリザは昔イタズラ小僧に眉毛を描き足された時の話を、大げさにして胸像を笑わせている。胸像はふと、校庭の方からかすかな物音を聞く。だが、その音はすぐにモナリザの声にかき消されてしまう。まぁ、何の音だっていいか。どうせすぐに取り壊されるんだから。

勇気

 朝起きて洗面所の鏡を覗くと、耳から毛のようなものがちょろっとはみ出していた。俺もいよいよジジイだな、と悲しくなりつつ引っ張ってみると、それは、細くよじれた文字の塊だった。
「保険」「お義母さん」「世間」「左目」「スイッチを直して」
 そんな言葉が細切れになって、塊のあちこちから顔を覗かせている。

 ああ、そうか。
 昨日の夜、妻と口喧嘩をしているうちにいつの間にか寝てしまったのだが、これはその残り滓らしい。

 そのままゴミ箱に捨てるのも何となく嫌だったので、トイレに流すことにした。
 便器の蓋を開け、トイレが詰まらないように、文字の塊をほどいていく。
 すると、塊の中に「勇気」という言葉がやけに多く混じっていることに気づいた。

 勇気か。
 妻はなぜこの言葉を使ったのだろう。
 本来の意味としてだろうか、それとも、幼くして死んだ息子の名前としてだろうか。

 いいや。今考えても仕方がない。
 淡く汚れた便器の水から目を逸らし、水洗のレバーを捻ると、威勢の良い音とともに文字が流されていった。
 何だかどっと疲れて、トイレを出ようとした時、妻が扉の向こうで様子を窺っている気配がした。

 深夜バイトの帰りに、夜明け前の薄暗い商店街を歩いていたら、暗がりから妙な音が聞こえてきた。音の方へ目をこらすと、随分前に夜逃げした洋服店のショーウィンドウの中で、カラス?の群れが、マネキン?の腹?をくちばし?で破り、肉?を食って?いた。
「?」が多くて申し訳ないけど、そうとしか言いようがなかったんだもの。

怪盗

 コンビニでおにぎりを買って一口かじったら、おかかが入っているはずのスペースに、薔薇の花びらが入っていた。コンビニに戻って事情を説明すると、「たまにおにぎりの具だけを盗んでいく怪盗が現れるんですよ」とのことで、新しいおにぎりと交換してもらった。余計なお世話かもしれないが、おかかはご飯と一緒に食べた方がおいしいと思う。思うぞ、怪盗よ。