超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

桃の水

 友人の家に遊びに行くと、友人のお母さんが、昔よく出してくれていた桃の香りのする水のことを思い出します。

 

 友人のお母さんは桃の香りの息を吐き出す唇を持っていて、それを水に沈めて桃の水を作っていました。

 水を入れたプラスチックのポットの中で桃の香りの泡をゴボゴボと吐き出す唇、少し厚い唇、友人のお母さんはその唇を、昔拾ったものだと言っていましたが、たぶん違います。

 友人の家の居間にはいつ行っても倒れたままの写真立てがあったのですが、そこにあの唇の主が写っていたのではないかと思うのです。

 

 しかし、友人のお母さんは去年病気で亡くなってしまい、写真立ても一緒に片づけられてしまったようなので、今更あの唇や桃の水のことをあれこれ訊く理由もありません。

 ただスーパーの果物売り場や八百屋の前を通りかかった時なんかに、ふと桃の香りを嗅ぐと、そのことを思い出して少し心がざわつきます。

 

 それだけの話です。