トモコとマリコ

超短編を中心とした短い読み物を発表しています。

爪と指と腕

「爪」

 アパートの隣室から、かれこれ三時間近く、爪を切る音が聞こえ続けている。

「指」

 洗濯機から取り出した夫の古い作業着のポケットから、ぎゅっと小さく丸まった紙の塊が出てきた。広げてみるとそれは夫が書いた私の設計図だった。
 指の動きの滑らかさに、こだわっていたらしい。
 余白にメモされていたキャッチコピーらしきものは、滲んで読めなかった。

「腕」

 引っ込み思案だった娘が、最近急に明るくなった。夏休みの間に仲良くなった子がいるらしく、毎日その子の家に遊びに行っている。
 今日も学校から帰ってくるなり自分の部屋に飛び込み、ごそごそとお出かけの準備を始め、声をかける間もなく「いってきます!」といつも以上に元気よく飛び出していった。苦笑いしながらマンションのベランダに出て見送っていると、娘の手に、新聞紙でくるんだ細長い塊が抱えられていることに気づいた。
 何だろう、あれ。
 妙な胸騒ぎを覚え、娘の部屋の扉を開けると、両腕を切り落とされたぬいぐるみたちが床一面に転がっていた。

緊急事態

 長いこと放置していた冷凍室の霜の奥で、小さな人影が小さな人影をビンタしていた。
「寝たら死ぬぞ!」
 という声がかすかに聞こえた。

 映画とかでよくあるやつだ。
 こんなところで見ることになるとは。
 しかしそもそも彼らはどこを目指してここに迷い込んだんだろう。

 まぁいいやごめんちょっと氷枕取らせて……。

 月には一匹の老いた猫がいる。
 猫には蚤がついている。
 猫だけがいる。
 飼う人はいない。
 飼う人がいないから、洗っていない。
 洗っていないから、猫は痒い。
 痒いから、掻く。
 すると猫から蚤が飛び出す。
 その蚤を地球から見たのが、流れ星の正体だ。
 だから、流れ星に祈っても効果は期待できない。

 しかし、猫は、願いを叶える気満々でいる。
 昔、月にやってきた人間に、地球にはそういう習慣があると教えられたのだ。
 はりきっているのだ。

 だから流れ星に祈ってやると、月にいる猫が喜ぶ。
 それだけのことだ。

苺と苺

 夜中の台所からひそひそ声が聞こえてきたので、何事かと思い見に行くと、テーブルの上に置きっぱなしで冷蔵庫にしまい忘れていたパックの中の苺たちが、明日の朝のためにやはりテーブルの上に置いておいた苺ジャムの瓶に向かって、何かひそひそ話をしている声だった。家族の誰かが起きているのかと思っていたが、事態はもう少し複雑なようだった。
 とりあえず苺ジャムの瓶を苺たちから見えない場所に隠した方がいいと思いそうすると、ひそひそ声は一層高まってしまった。どうやら余計なことをしてしまったようだ。不安そうな苺たちに何を言うべきかなすべきか考えて迷っていると、トイレに起きたらしい父が背後からぬっと現れて、長身を折るようにしてパックを覗きこんだ。「ううん」と父は難しそうな声でしばらく唸っていたが、ふいに何か思い切ったようにパックのセロファンを剥がし、その中の一粒をひょいと口に入れた。その瞬間、ひそひそ声はぴたりと止んだ。父は苺をゆっくり噛んでゆっくり飲み込むと、そのまま何も言わずに寝室に戻っていった。
 すっかり静かになったパックの苺を冷蔵庫に入れる時、なぜだか知らないが、小学校の保健室で寝ている子どもの映像が頭に浮かんだ。

 翌朝、パックの苺を洗って、朝食に出した。
「苺と苺でかぶってるよ」という話で父以外の家族が少し賑やかだった。

体調

 朝起きたら喉が腫れていた。軽い風邪でも引いたのかと思い、通勤途中に薬局に寄ってのど飴でも買おうと考えていた。だが、朝食を食べている時、ごはんやおかずの塊がその腫れた部分に触れるたびに、家のインターフォンが鳴ることに気づいて、薬局なのか、医者なのか、電気屋なのか、大家なのか、自分はどこに寄るべきなのかわからなくなってしまって、結局、仕事を休んだ。そんな一日だった。