トモコとマリコ

超短編を中心とした短い読み物を発表しています。

夜風

 涙が染み込んで、すっかりふやけてしまった古い顔を、爪の先で少しずつ剥がしながら夜道を歩く。
 道に落ちた古い顔が靴の裏にくっついて、にちゃにちゃと嫌な音を立てている。
 どうして失恋なんかで泣いてしまったんだろう。
 ……。
 古い顔を全部洗い流す。爪に詰まった古い顔をつまようじか何かでほじくり出す。靴の裏を洗う。
 家に帰ったらまずそんなことをやらなければいけない。その全てが面倒くさい。観たいテレビもあるのに。
 ……何で今日だったんだ。
 そんなことをぶつぶつ考えているうち、気づけば古い顔はほとんど剥がれ落ちていた。
 新しい顔を涼しい夜風が撫でていく。
 この時の心地好さだけはちょっと好きだ。
 ……。
 ちょっとだけだけど。

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コツ

 友人と呑んだ帰り、一人公園に立ち寄って、ベンチで夜風を浴びていた。ちょっとうとうとしてきた頃、ふいに暗闇からやたら背の高い爺さんが現れた。手にはカップ酒が握られており、すっかり出来上がっている様子だった。
 爺さんは酒を呑みながら、何かを口の中でぼりぼりと噛み砕いていた。豆か煎餅かわからないが、何となく旨そうな音だ。そんなことを思っていたら、爺さんと目が合った。
「食べたい?」
「……ははは」
「へへへ」
「……あの、それ、何ですか?」
 爺さんは少し得意げな顔で夜空を指さした。見上げたが、そこには星空があるだけだった。
「何ですか?」
「よく見てて」
 爺さんはつま先立ちになり、空に手を伸ばして、ゆっくりと拳を握った。爺さんが手を引っ込めると、星が消えていた。
「あ」
「へへへ」
 爺さんは俺から少し離れた場所へ移動し、さっきと同じように空に手を伸ばして拳を握った。見上げると、やはりそこだけ星がなくなっていた。
「ははぁ……」
「ね」
「はぁ……」
「うん、うん、へへへ」
 爺さんは照れくさそうに頭を掻き、俺の隣に腰かけ、そしてまたぼりぼりやりはじめた。
「……旨いですか?」
「旨かないね」
「え、ああ……あ、でも、酒には合うんですか?」
「そういうわけでもないけど、まぁ、酒と一緒にやるのが一番だね」
「俺もその……何ていうんですか……採る?採れますか?」
「まぁ、ちょっとしたコツはあるけどね」
「へぇ……」
「うん」
「……あの、そもそも食べてもいいんですか?そういうのって」
「いやぁ、ダメだよぉ」
「でも、食べてるじゃないですか」
「……僕はね、戻れないから」
「戻れない?」
「……僕は、女房とせがれをね、これで、やっちゃったから」
 爺さんは無表情のまま続けた。
「でもね、もう戻れないから」
 その声には妙な圧迫感があった。何一つわからなかったが、それ以上何も言えなかった。そんな俺をよそに、爺さんはゆっくりと立ち上がった。
「ごめんね」
「あ、いや……」
「これやると喋りすぎるんだね」
「あ、そうなんですか……」
「風邪引くからね、早く帰った方がいいよ」
「……はい」
 暗闇に去っていく爺さんの背に俺はそっと尋ねた。
「……あの、すいません」
「何?」
「……さっき言ってた、コツって何ですか?」
 長い沈黙ののち、爺さんは言った。
「鈍くなることだね」
 爺さんは俺に力なく手を振り、やがて見えなくなった。

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生もの

「生ものの荷物が届くから受け取っておいて」
 と言い残し、母は出かけていった。
 夕方頃、大きな段ボール箱が届いた。生ものって言ってたな、と思い蓋を開けると、背中にマスタードケチャップをかけられたおじさんがうずくまっていた。
 とりあえず冷蔵庫の横に置いて母の帰りを待っていたが、夕飯の時間になっても帰ってこない。思わずぐぅ、とお腹を鳴らすと、暗闇の中でおじさんがびくっとしたのがわかった。

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 どちらから声をかけたのかは忘れたが、たまたま通りかかった夜の美術館の前で、俺はその女と出会った。
 酒を呑み、飯を食い、することをした後、嗅いだことのない煙草の香りの中で、「絵とか、好きなの?」と尋ねると、彼女は笑いながら、
「いや、別に」
 と答えた。
「そうなの?じゃ、何で……」
「あそこに勤めてるから、居ただけ」
「ふーん」
 次の日曜日、さんざん迷った挙句、結局会いに行ってしまった。
 展示室に入ってすぐに、仕事中の彼女を見つけた。
 俺が軽く手を振ると、彼女は油絵の中の断頭台の上から、困ったように微笑んだ。

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尾と舌

 ××さん家の奥さんが夕飯の支度を始めると飼い犬が怯え出すのは、我が家だけではなかったらしい。
 しかし、今さらそれを知ったところで、飼い犬の怯えた顔を見たくて夕暮れを心待ちにしている私は、もう手遅れなのだろう。

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