栗子さんは田舎町に生まれた。ある夏の晩のことだった。
栗子さんがこの世に咆哮をあげた瞬間、分娩室にいた人々は部屋がぐにゃりと歪むのを感じた。人々は栗子さんの顔を覗き込み、その美しさに息を呑んだ。栗子さんを取り上げた看護婦は栗子さんを胸に抱いたまま逃走しようとして、取り押さえられた。
栗子さんを知る全ての人間の予想通り、栗子さんは美しく成長した。しかし、栗子さんの美しさは、栗子さんが住む田舎町には手に負えないほどのものだった。そこでは、朝から晩まで誰かがうっとりと、あるいは妬みの炎越しに、あるいはいやらしい想像を伴って、栗子さんを瞳の中に閉じ込めていた。町じゅうがいろいろな角度から栗子さんを見ていた。
両親は栗子さんの美しさを巡って喧嘩が絶えなかった。兄は失踪し、飼い犬は出した舌をひっこめる方法を忘れてしまった。交番が潰れ、図書館に蜘蛛の巣が張った。
それは美人の宿命だった。
大人になった栗子さんは都会に出た。駅を降りた瞬間にスカウトされ、その日の晩にはスターになっていた。
栗子さんは舞台で眠り、ドラマで微笑み、映画で夜空を走り回った。栗子さんを見る目は、日に日に増えていった。
一秒も欠かさず、栗子さんは世界中のどこかに現れた。ニューヨークのボロアパートの一室を煌々と照らすブラウン管、フィリピンの鉱山作業員の休日を彩るスクリーン、スペインのタクシー運転手の財布の中で小さく折りたたまれた雑誌の切り抜き、横浜の漫画喫茶に居座りもう4日も無断欠勤している若い医師の携帯電話の画面、あらゆる場所で栗子さんは見られていた。
それは美人の宿命だった。
ある夏の晩、一瞬だけ、世界が栗子さんから目を離した。
その瞬間に栗子さんの楽屋の前を通りかかったメイク係は、楽屋の中から、ばしゃっ、と水を叩きつける音がしたのを聞いた。
メイク係がドアを開けると、蛍光灯の下で、一匹の白いクラゲが宙を漂っていた。
クラゲはメイク係の頭上を通り過ぎ、開け放たれたドアからゆっくり外に出ていった。楽屋には、香水の香りだけが残されていた。
それは美人の宿命だった。