超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ごめんよ芋虫

 公園に散歩に行き、草の上に寝ころんでしばらく空を眺めていたら、突然何だか心許ない気分になってきたので、まさかと思ってシャツを脱いで確かめてみると、俺の名前の一文字が、芋虫にかじられてなくなっていた、もっとも、名前があってもなくても構わないような人生をずっと続けているから、一文字なくなったところで別に支障はないのだが、それでも何十年間か連れ添った名前の一部がなくなるのは、大事な部分の毛を剃った時みたいな妙な感じがした、しかし、芋虫はどこに行ったのだろう、薄い皮で包まれた腹の中に俺の名前が透けて見えているはずだ、そう思って辺りを見回したが、芋虫は見当たらなかった、帰り道、俺の名前をかじった芋虫がやがて蝶になった時、他の蝶と模様が違っていたりして、それでそいつがいじめられたりしたらそれはそれで申し訳ないなあ、などと考えていたが、家に帰って念のために靴の裏を確かめたら、案の定俺が踏んでいた、芋虫の体液にまみれた名前を靴の裏から剥がし、元に戻す、結局、一瞬の改名だった、前よりもよれよれになって情けなくなった名前が、俺の卑屈な顔によく似合っていた、ごめんよ芋虫、とってつけたようだが、本当にそう思ったんだ。

隣の音

 休日の朝だというのに、アパートの隣の部屋から、かれこれ一時間近く、まな板を包丁で叩く音がトントントントン鳴り続けている、どんな料理を作っているのか知らないが、さすがにイライラして、一言言ってやることにした、「すいませーん」、ドアチャイムを鳴らしてそう声をかける、と、包丁の音はやまないまま、女の声が返ってきた、「どちら様ですかあ?」「隣の者なんですけど」「あ、はあい?」「料理の音、ちょっと気になるんですが……何とかなりませんか?」「料理?」「はい、何か、まな板、トントン……」「あ、これは料理じゃなくてえ、しつけなんですよお」そう言って女は明るい声で続けた、「すいませえん、なるべく早くいい子にさせますのでえ、ちょっとだけ待ってていただけますかあああああ?」、ドアの向こうで、包丁の音がより一層高く響いた。

しおりひも

 いい本だった……とおもわずつぶやくと、本のしおりひもがまるで犬のしっぽみたいにじゃれてきた、いなかの図書館のよく陽のあたる席でのことだ、背表紙をなでてやるとペラペラと心地よい音をたててページがめくれた、借りて帰ろうと思ったが、よく見ると「貸出禁止」のスタンプがおされている、そういえば、こんなにいい本なのに、目立たない隅の棚の隅の場所にしまわれていたな、首をかしげていると、すぐ近くを通りかかった司書さんが「甘やかすとはしゃいで乱丁しちゃうんですよ」とそっと教えてくれた、なるほどそれなら仕方ない、なごりおしい気持ちで本を暗い棚の中へ戻す、しおりひもが指にからみつき、恋人とベッドの中で手をつないでいる時のように甘えてくる、ため息とともに司書さんがしおりひもを私の指からひき剥がしてくれる、図書館を出ると、いつの間にか夕方になっていた、いい本だった……と誰に言うでもなくつぶやいてみた。