超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

細胞

 煙草に火を点けようとしたが、ライターから現れたのは、炎のように赤い一匹の金魚だった。
 金魚はからかうように俺の鼻先を尾びれでさっと撫で、こともなげに空へ昇っていった。
 見上げると、頭上遙か高く、陽の光がまるで何かの細胞のような、ぶよぶよとした塊になって、いくつも揺らめいていた。
 光の中へ吸い込まれていく金魚のシルエットを見つめながら、この池で溺れ死んだことをふいに思い出した。

林檎

 親戚から林檎が送られてきた。一つ磨いて、母の仏壇にお供えした。
 その翌朝、幼稚園児の娘が仏壇の前に座って、何かそわそわしていた。
「何してんの?」
 と訊くと、
「寝てたら、おばあちゃんが、××ちゃんが起きたら、これ、食べていいって、言ってたから、食べていい?」
 と答え、仏壇を指さした。
 見ると、昨日の林檎が、いつの間にかウサギの形に切られていた。母がやったらしい。母にお供えしたんだから、母が味わえばいいのに。しかも、わざわざ娘が喜ぶウサギさんにしたのか。何というか、母らしくて笑ってしまった。
 次はハンバーグの材料でもお供えしておこう。

目覚め

 目覚めると猛烈に腹が減っていたので、部屋の隅に放られていただるだるのジャージに袖を通し、サンダルを突っかけて、牛丼でも食いに行くことにした。

 家の前の道を右左どちらに行けば牛丼屋に近いのかがわからなかったので、ひとまず右に行くと、先の方が、濃い霧でも出ているのか、真っ白で何も見えない。おそるおそる進んで行くと、たどり着いた何もない広場のような場所の真ん中に、看板が立てられていた。
 看板には、羽根ペンの隣で白髭の爺さんが謝っているイラストが描かれていた。どうやらこの先がまだ書き上がっていないらしい。

 まぁ、どちらにせよ、羽根ペンで書かれるような土地に牛丼屋があるとは思えないので、今来た道を引き返し、今度は左に向かっていくと、たどり着いた場所は工事用の三角コーンで塞がれていて、その向こうにもうもうと煙が立ちこめていた。
 砂埃かと思いよくよく目をこらすと、それはパイプの煙で、その煙の中ではブルドーザーほどもある巨大なタイプライターが、せわしなくがちゃがちゃと動き回っていた。
 こちらは先が少し書き進められているらしく、うっすらと摩天楼のようなものが見えたが、おそらくあそこにも牛丼屋はないだろうと思われた。

 どうやら俺は目覚める場所を間違えたようだ。

もぐら

 明け方、新聞配達のために通りかかった飲み屋街の裏路地に、何か小さくてコロコロしたものがいくつも落ちているのを見つけた。
 近づいてよく見るとそれは、すぐ近くにあるゲームセンターの、もぐら叩きのもぐらたちだった。アスファルトに体を投げ出すようにして、だらしなく酔いつぶれている。
 ほどなくして飲み屋の主人が出てきて、もぐらたちに一言二言声をかけると、もぐらたちはめいめい心底めんどくさそうに立ち上がり、ゲームセンターの方へ消えていった。

 昼前、新聞店のバイトを終えると、俺の足は自然とゲームセンターに向かっていた。
 もぐら叩きは、最新ゲームの煌びやかな光と音に締め出されているかのように、店の隅っこでひっそり稼働していた。
 筐体の前に立ち100円を入れると、申し訳程度のBGMとともに、精一杯の作り笑顔をしたもぐらたちがぴょこぴょこ顔を出した。
 しかし、ハンマーを握り、もぐらたちへそれを構えた瞬間、色々な感情が湧いてきてしまって、腕が動かなかった。

 ……あれ?何のために俺はここに来たんだろう?
 一体、何を確かめたくて、俺はここに……?
 もぐらたちの、どんな姿が見たかったんだ、俺は……?
 あんなに酔いつぶれていたもぐらが、それでもがんばる姿か……?
 それとも、あんな無様な姿を晒していたもぐらが、やっぱり無様に叩かれているところ……?
 それとも、筐体に貼られた「故障中」の張り紙……?
 あれ……?
 俺、このハンマーで、何がしたいんだ……? 

 ぎこちなく動き続けるもぐらの前で1ミリも動かない俺、という不毛な時間が1分か2分流れ、スコアに「0ポイント」の文字が表示された。
 俺が静かにハンマーを戻し、筐体に背を向けると、背後から嫌なげっぷの音が聞こえてきた。

 ……まぁ、あんな酔い方をしていたんじゃ、今頃二日酔いだろうし、頭を叩かれるのもキツイだろう。
 これでよかったんだ。

 そう無理矢理自分を納得させて自転車に跨ったが、こんなに寂しい気持ちでゲームセンターを後にするのは、初めてだった。