超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

鍋とラード

 夕日を遮るたくさんの影の中から、笑い声が聞こえる。
 ラジオから流れる夕暮の歌の中で、私はうつむいて立ち尽くしている。
 夕日のほとりのドブ川に、すえたワインのにおいが立ち込めている。
 ラードで地面に描かれた輪の中で吐き気をこらえる私を見て、チーズ臭い笑い声が爆ぜるように響き渡る。

 冷蔵庫の奥の小さな町で、ふと気づけば迷子になっていた。
 レモンの角を曲がり、メロンの皮をよじ登り、豚肉の切れ端の無言のいななきに怯えながらさまよい歩いているうちに、帰り道がわからなくなっていた。

 人間のような、そうでないもののような、その寄せ集めのような影たちがちらほらと現れて、広場の隅に立ち尽くす私を取り囲んだ。
 ニヤニヤ笑って彼らは、私を遊びに誘ってきた。
 広場の真ん中の鍋の中で、スープがぐつぐつと煮え立っていた。

 ラードで地面に描かれた輪の中で吐き気をこらえる私を見て、チーズ臭い笑い声が爆ぜるように響き渡る。
 あなたの負けよ。
 いつの間にか夕日は沈み、厚ぼったい夜空に黴のような星が瞬いている。
 足元に気をつけてね。
 いちばん幼い少女らしき影はそう言ってコーンの瞳を輝かせながら、私の手を取り鍋へと導いていく。

いつも

 元の私に着替えてくるから、そこで待ってて、すぐに済むから。
 いつものようにそう言って彼女は窓枠に腰かけ、カーテンをさっと引いた。

 ベッドに身を沈めラッコみたいな格好で天井を眺める。
 カーテンが目の端で揺れるたびに、紙切れみたいな光の欠片がちらちらと動いた。

 深く息を吐き、
 目を閉じて、さっきまでのことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
 いつもそうだ。

 寝返りを打ちベッドの脚を撫でてみる。
 ささくれていて、冷たくてザラザラしている。
 ふいに涼しい風が背中を通り過ぎる。
 昼間の雨が夕方頃にやみ、お陰で今夜はだいぶ涼しかった。

 じゃあ帰るね。
 彼女の声が聞こえた。
 再び寝返りを打ち、窓に目をやる。
 いつの間にかカーテンは開いていて、彼女の姿はなかった。

 窓の外で、月が音もなく夜空を照らしている。
 たくさんの星がぼんやりと浮かんでいる。

 いつものように目をこらし、そのたくさんの星の中から、元の姿に着替えた彼女を探してみたが、うまくいかなかった。
 いつもそうだ。

羽根と火の輪

 夕暮の児童公園に火の輪が佇んでいる。
 もう随分前にサーカスを追い出された、古ぼけた火の輪だ。
 ちろちろと切れの悪い小便のような火を身にまとい、かつてその身をくぐらせたライオンや虎の顔を思い出して、ぼんやりと日を潰す。
 藤棚の上で火の輪を睨む、羽根の端を焦がした鳩の恨めし気な瞳にはいつまで経っても気づかない。

蛇と笛

 ずっと昔、酔った女を俺の部屋で介抱していた時、乾いた寝息を立てて眠る女の首筋に、いくつもの穴が空いているのを見つけた。
 何気なく指で一つの穴を塞いでみると、女の寝息の音色が少し変わった。エキゾチックな感じの不思議な音色で、聞いていると体中の骨や肉をむずむずと心地良い痒みが襲う。
 面白くて穴をかわるがわる塞いでいると、段々と何かメロディのようなものが出来上がっていった。それと同時に、穴を塞ぐ俺の指が、タップダンスでも踊っているかのように、激しく動き出して止まらなくなった。
 半笑いのままどうしたものか考えていたら、窓の外にふと視線を感じた。おそるおそる目をやると、俺の部屋の前の排水口や雨樋の隙間から、色とりどりの無数の蛇が首をもたげている。驚いて女を起こそうとしたら、女が夜の闇を飴で固めたような瞳でじっと俺を見つめていた。

チョコレートで出来た友達が

チョコレートで出来た友達が
軒下で夜を待っている夕暮時
野鼠に齧られた鼻の頭を気にしながら君は、
チカチカ光りはじめたエッチなお店のネオンを見つめている。

チョコレートで出来た友達が夜を待ちながら
軒下で歌を口ずさんでいる夕暮時
君の喉の奥に居座るざらざらした砂糖の塊は、
小さかった頃の私の料理下手のせいだ。

君の背中に照りつける西陽の光は、
むせかえるような甘い香りを街の隅に漂わせ、
眠りはじめた野鼠たちは夢の中で砂糖壷に溺れる。

明るいキッチンに立ち人間の友達のために鍋をかき混ぜながら、
洗濯機の渦を眺めるのが好きだった君の、
か細い鼻歌を今さら思い出している。