超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

星と砂糖

 本を閉じて目薬をさし、土曜日の月に腰かけて、生まれ育った町をぼんやりと眺めている。
 かじりついたドーナツからこぼれた砂糖の粒が、星のふりをして夜空に降り注ぐ。
 生きていた頃と何も変わらない退屈な町が、少しだけ色っぽく見える。

 背の高いマンションのベランダで語らっていた若い夫婦の奥さんの胸に抱かれた赤ん坊が、キラキラ光る砂糖の粒をじっと見つめている。
 野菜の大きなシチュー、ハンドクリーム、卒業証書を入れた筒、夜中のエレベーターに漂う化粧の匂い、汗でべたべたした男の背中。
 赤ん坊の顔を見ているうちに、とりとめもなくそんな記憶が溢れてきて、何だかよくわからないけど、夜が更けて月が消えるまではここでドーナツを食べながら、あの赤ん坊をからかってやろうという気分になった。

月とホットケーキ

 台所でホットケーキミックスを混ぜていたら、ふいに雨音が途絶えた。朝から降っていた雨が夕方になってようやく止んだらしい。
 リビングに行き窓を開けたら、どこからか土のにおいがした。

 たてつけの悪い窓を閉める時、土のにおいに古い思い出を呼び起こされた。
 付き合っていたクラスメートの家に初めて遊びに行った帰りの田舎道、初夏の夜に蒸された草と土のにおいの中、自転車を走らせながら真ん丸の月を見上げてふと、あれを粉々に砕いたらどんな気持ちがするだろう、と考えてなぜだかとても寂しくなった。

 月の色のホットケーキミックスを鉄板の上に流し、粉々に砕いた月を元通りにするように形を整える。
 あと2時間もすれば、クラスメートだった男がこの部屋にやってきて、あの日のように私を抱くだろう。

にんげんの指にんげんの耳

 両目をギョロギョロと動かしながら、じゃあこの問題をナカムラ、と言ってタカハシ先生は乾いた鱗に覆われた指の間からチョークを床に落とし、それを長い舌で拾おうとして、はっと我に返った。
 ナカムラさんはそんな先生を意にも介さず、ツカツカと黒板に歩み寄りチョークを動かす。お尻から生え出してきた犬の尾が、スカートを少しだけめくらせ、白い太腿が見える。

 教室の隅では学生服を着たゾウが、粉々になった椅子の上であくびをしている。
 金魚になったオオシマ君は、もう三月もプールから帰ってこない。

 器用にペンを握る私の、にんげんの指が愛しくて憎らしい。
 牙と赤い舌の向こうからやってくる吠え声や唸り声。にんげんだった頃よりみんな饒舌みたい。
 それを聞いている私の、にんげんの耳が誇らしくて寂しい。

 昼休みになれば私はいつものように弁当箱の蓋を開け、母の作った甘い味付けの卵焼きをにんげんの歯で噛み砕くのだ。
 朝の台所で、自らが産んだ卵をじっと見つめる母の目を思い出しつつ。

鍋とラード

 夕日を遮るたくさんの影の中から、笑い声が聞こえる。
 ラジオから流れる夕暮の歌の中で、私はうつむいて立ち尽くしている。
 夕日のほとりのドブ川に、すえたワインのにおいが立ち込めている。
 ラードで地面に描かれた輪の中で吐き気をこらえる私を見て、チーズ臭い笑い声が爆ぜるように響き渡る。

 冷蔵庫の奥の小さな町で、ふと気づけば迷子になっていた。
 レモンの角を曲がり、メロンの皮をよじ登り、豚肉の切れ端の無言のいななきに怯えながらさまよい歩いているうちに、帰り道がわからなくなっていた。

 人間のような、そうでないもののような、その寄せ集めのような影たちがちらほらと現れて、広場の隅に立ち尽くす私を取り囲んだ。
 ニヤニヤ笑って彼らは、私を遊びに誘ってきた。
 広場の真ん中の鍋の中で、スープがぐつぐつと煮え立っていた。

 ラードで地面に描かれた輪の中で吐き気をこらえる私を見て、チーズ臭い笑い声が爆ぜるように響き渡る。
 あなたの負けよ。
 いつの間にか夕日は沈み、厚ぼったい夜空に黴のような星が瞬いている。
 足元に気をつけてね。
 いちばん幼い少女らしき影はそう言ってコーンの瞳を輝かせながら、私の手を取り鍋へと導いていく。

いつも

 元の私に着替えてくるから、そこで待ってて、すぐに済むから。
 いつものようにそう言って彼女は窓枠に腰かけ、カーテンをさっと引いた。

 ベッドに身を沈めラッコみたいな格好で天井を眺める。
 カーテンが目の端で揺れるたびに、紙切れみたいな光の欠片がちらちらと動いた。

 深く息を吐き、
 目を閉じて、さっきまでのことを思い出そうとしたが、うまくいかなかった。
 いつもそうだ。

 寝返りを打ちベッドの脚を撫でてみる。
 ささくれていて、冷たくてザラザラしている。
 ふいに涼しい風が背中を通り過ぎる。
 昼間の雨が夕方頃にやみ、お陰で今夜はだいぶ涼しかった。

 じゃあ帰るね。
 彼女の声が聞こえた。
 再び寝返りを打ち、窓に目をやる。
 いつの間にかカーテンは開いていて、彼女の姿はなかった。

 窓の外で、月が音もなく夜空を照らしている。
 たくさんの星がぼんやりと浮かんでいる。

 いつものように目をこらし、そのたくさんの星の中から、元の姿に着替えた彼女を探してみたが、うまくいかなかった。
 いつもそうだ。

羽根と火の輪

 夕暮の児童公園に火の輪が佇んでいる。
 もう随分前にサーカスを追い出された、古ぼけた火の輪だ。
 ちろちろと切れの悪い小便のような火を身にまとい、かつてその身をくぐらせたライオンや虎の顔を思い出して、ぼんやりと日を潰す。
 藤棚の上で火の輪を睨む、羽根の端を焦がした鳩の恨めし気な瞳にはいつまで経っても気づかない。