超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

唇とオレンジ

 誰も読まないお話をずっと書いている。

 今日は頭が砂時計になってしまった男のお話を書いた。男は恋人にふられたりとか、仕事を失ったりとか、色々あって飛び降り自殺するのだが、マンションの屋上から飛び降りたときに、初めて自分の砂が引っくり返る音を聞く。

 このお話はすぐに捨てた。そういうお話は、役所から来た何かの督促状や、その封筒の裏に書いているから、捨てやすい。

 昔、友だちがいた頃、その友だちも同じようにお話を書いていたのだが、彼は立派なノートに立派な万年筆で彼の物語を綴っていた。そういうのに憧れたこともあったが、立派なノートに立派な万年筆なんかでお話を書いたら、自分が立派なことを書いているような気になってしまいそうで、それから封筒やトイレットペーパーの芯に書くようになった。ただ、どのみち、誰かに読ませる前に捨ててしまうので、何に書くかはどうでもいい。

 

 僕のお話は誰も読まないので、それで飯は食えない。

 妻がいる。

 妻は空っぽのベビーカーを押しながら、食べ物を探して、夜中の町をさ迷っている。

 一人で寝ていたら、空腹で目が覚めてしまった。冷蔵庫を開けると、オレンジが一つ転がっていた。取り出してちょっと齧ると、冷たい果肉と、甘い汁が口の中へ飛び込んできたが、胃の調子が悪くて全部は食べられなかったので、残りを冷蔵庫に戻した。

 テレビを点けると、昔の知らない映画をやっていて、知らない女優が、娼婦の役で出ていた。知らない女優が演じる娼婦は、口笛を吹いたり、財布の金を数えたり、花の香りを嗅いだり、広場にはためく国旗を睨みつけたり、そうやってせわしなく動いていた。

 観ているうちにいつの間にか寝てしまっていたらしく、気づいたら部屋に朝が来ていて、傍らで妻がめそめそ泣いていた。

 妻も僕も、何か嫌な夢を見たらしく、汗びっしょりだったので、シャワーに誘った。

 ガスが止められているので、水を浴びた。二人で震えながら、抱き合って、キスをした。妻はキスが上手い。だから長くなる。

 

 長いキスをしている間に、さっきのオレンジが腐っていく。