超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

雀と桜

 四月の蒸し暑い午後のことである。川辺の桜並木は、大勢の花見客で賑わっていた。地面に広げられた色とりどりのビニールシートの上では、無数の人間がひしめき合い、桜を見ては笑ったり泣いたりしていた。
 いや、桜を見ている者はむしろ少数だったかもしれない。大半は酒気と陽気にあてられ、夢うつつのまま川辺を徘徊しているような有様であった。
 いつもならば辺りに立ちこめている静けさも、その日は怒声や馬鹿笑いや泣き声ですっかり塗り潰されていた。

 この桜並木から程近い場所に、竹やぶがある。昼間でも暗く、普段ならテレビか電子レンジを不法投棄しに来る人間以外ほとんど誰も立ち寄らないため、この辺りに住む雀は、昔からこの竹やぶの奥にお宿を構えていた。

 このお宿では、数年前の舌切り事件以来、恒例であったお花見が自粛されていたが、舌を切られた雀当人の強い希望により、今年から再び開催されることとなった。
 いつもは生真面目なお宿の連中も、今日ばかりはフランクフルトの露店の屋根に陣取り、つまみと酒をちゅんちゅんやりながら、くちばしを紅潮させ、羽根の間に汗をかきつつ、めいめい好き勝手に春の陽気を貪っていた。

 その中にあって、舌を切られた雀は、座の隅で微笑みながら、筆談用に買ったノートパソコンのキーボードを静かに叩いていた。彼女の両隣には、大きなつづらを用意した雀と小さなつづらを用意した雀がそれぞれ座り、温くなったビールをちびちび飲んでいた。
 周囲の喧騒をよそに三羽は、次の日にはもう忘れているようなどうでもいい話を、だらだらと続けていた。
 それは例えば、舌を切られた雀の親戚に子供が生まれたとか、大きなつづらは最近ジムに通っているとか、小さなつづらは昔劇団員をやっていたとか、そういう類の話であった。
 三羽がそれぞれの話にいい加減飽き飽きしてきた頃、舌を切られた雀は、不意に口元に奇妙な笑いを浮かべると、

      わたし、
      ときどき、
      もうないはずの
      舌のうえに、
      あの日なめた
      糊のあじが
      よみがえること
      あるんですよ(笑)

 と打ち込み、大きなつづらに画面を向けた。
 大きなつづらは丸い目でじっと画面を見つめたあと、舌を切られた雀の顔にちらりと目を向け、やがて黙りこくってしまった。
 舌を切られた雀は内心で大笑いしながら、大きなつづらの肩やうなじに積もったふけを、その柔らかい羽根で払ってやった。

 酌をして回っていた尻の大きな幼い雀をつかまえ、その白い太腿に鼻をすり寄せていた小さなつづらが、二人の様子に気づき、へらへら笑いながら画面を覗き込んできた。
「何、何? 何の話ですか?」
 舌を切られた雀は微笑みながら、小さなつづらに画面を向けた。小さなつづらはけらけらと笑ったかと思うと、突然真顔になり、
「深いですねえ」
「深いなぁ」
 とつぶやいてビールを飲み干した。大きなつづらは黙りこくったままだった。

「皆さん、楽しんでますかー?」
 一番大きな桜の木の下にいつの間にか据えつけられていたスピーカーから、快活な老人の声が聞こえてきた。マイクを握っているのは、取り巻きに囲まれた花さか爺だった。
「今年もこうして、枯れ木に花が咲きました!」

 小さなつづらが新しいビールの栓を開けながら、舌を切られた雀の耳元に顔を寄せた。
「知ってます? あの爺……」
「そこのお母さん! 楽しんでますか!」
「うるせえな」
 小さなつづらが舌打ちした。花さか爺は、ベビーカーを押して近くを通りかかった若い主婦の腕を掴み、語り始めた。

「いいですか、お母さん。爺の戯言だと思ってね、聞いてください、ね? ええ、その坊ちゃん……お嬢ちゃん? ま、どっちでもいいんですが、いいですか、お母さん、その子がいつまで生きられるか、ね? どのくらい幸せに生きられるかっていうのは、ね? これは、ああ、お母さん次第なんでございますよ。そして、ね、いいですか、与えた幸せの分だけ、必ず恩返しっていう形でね、ええ、これは、お母さんに返ってくるわけですから、ね? ええ、これは本当にね、役に立つ話ですから。いいですか、お母さん……」
 突然わが身に降りかかってきた花さか爺の説教と口臭という不幸に顔をしかめている主婦を見ながら、小さなつづらが声をひそめて言った。

「でね、あの爺……去年だったかな、この桜並木を車で走ってるときに、てめえが咲かせた桜に見とれてて、野良犬、轢いちゃったんですって」
「噂ですけどね」
 舌を切られた雀はちょっと首を傾げ、唇の端に笑みを浮かべた。
 酌を終えた幼い雀が、舌を切られた雀の背中に抱きついてきた。舌を切られた雀は幼い雀の喉を撫でてやった。幼い雀はくすぐったそうに身をよじった。
 小さなつづらがごろりと横になりながら言った。
「いやぁ……深い話ですよ。僕はね、深い話が大好きなんだ」

 いつの間にか説教は終わっていた。爺が深々とお辞儀をすると、今度はスピーカーから耳慣れたイントロが流れてきた。取り巻きたちの手拍子が始まり、爺がなすりつけるような声で歌い始めた。
「あしぃたがあるぅさ、あすがあるぅー」
「お……」
 小さなつづらがへらへらと笑った。
「わたしね……」
 幼い雀が、甘えた声でささやいた。
「わたしね、昨日、新しいパパとお風呂入ったの」
 舌を切られた雀は幼い雀にパソコンの画面を見せた。

    ママは何て?

「僕が昔、ゴーリキーの『どん底』を演出したときにね、使ったことがあるんですよ、あの歌」
 小さなつづらがげっぷをしながら語り始めた。
「ラストですよ、役者が首を吊ったあとのサーチンの台詞」
「せっかくの歌ぁぶち壊しやがった……馬鹿野郎!!!!!!!」
 小さなつづらが大声を出した。幼い雀がびくりと体を震わせた。
「この台詞のあと、暗転がパーンと入って、あしーたがあるーさ……ね、どうです? これ、すごい皮肉でしょう? ね? 僕、そういうのが好きなんですよ……皮肉とか、深い話が……」
 小さなつづらはそう言いながら眠ってしまった。幼い雀はかすかに煙草の臭いがする羽根で、静かにキーを叩いた。

    べつになにも

 舌を切られた雀は鼻を鳴らし、幼い雀の頭を撫でると、肩から優しく羽根をほどいて、音もなく飛び立った。
 それから大きな桜の木のてっぺんに止まり、澄んだような濁ったような目で、桜が散るのをいつまでも眺めていた。大きなつづらはずっと黙りこくったままだった。