超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

あなたとわたし

(一)

(親父の墓参りに行くのはいつだっけ?)
 などということを考えながら、あとむはうらんの鼻の下の産毛を唇で挟んだ。
 うらんは固く目を閉じ、右手で前髪を隠して、左手であとむの尻を触りながら言った。
「あんたがあたしのうえにのっかってきて、わたしの肉が延ばされたりすると、地球に重力があるってことを思い出すのね。今まできづかなかったことを思い出すのね。なんだかおかしな言い方だけどね。細長いあんたの愛みたいなものが、出たり入ったりすると、夜空が澄んでいたり、地球上に人がたくさんいたり、足の裏にも神経が通っていたりすることを、ね」

(冷蔵庫の中に苺が余っていたっけ?)
 などということを考えながら、あとむはうらんの腰の肉に鼻をすり寄せた。
 うらんは腿を震わせ、腋の下に汗をかきながら、頭の右側であとむのことを考え、頭の左側でカーテンの隙間に挟まった月を眺めていた。
「あたし、月を見るとね、いつも思い出すの、じいちゃんのこと。あっ。夏の夜だった。奥歯にトマトの皮が挟まってた。実家の田んぼの真ん中で、じいちゃんが、月明かりを浴びて、大の字になって死んでた。あっ。四方八方からカエルの声がしてた。おちんちんが腐りかけてた。確かなこと、とか、確かなもの、って言葉が大嫌いだったじいちゃん、藤の座椅子に黴が生えてたじいちゃん、あっ、じいちゃんの、おちんちんが、腐りかけてた。あっ、あっ、あぅ」

(人が人の死に魅せられるのは、一種の異国趣味なのかもしれない。)
 などということを考えながら、あとむは便器に跨った。

(そのおちんちんには、妾が三人もいたっていうのに。)
 うらんは唇の端を歪ませ、蓋をするように布団をかぶった。



(二)

「電車の中でぶっ倒れたことがありまして」

 と、ばかぼんのぱぱは切り出した。
 ばかぼんのままは椅子をきしませながらボールペンをノックした。

「心臓が祖母ゆずりでして」
「その時にね、面白いことに気がついたんですよ」
「電車っていうのは、前に進んでいますね。でもね、床に転がっていますとね、まるで上にのぼっていくような感覚になるんです」
「空に向かってぐんぐん」
 ばかぼんのままは椅子をきしませながらボールペンをノックした。
「窓の外を、鳥とか、予備校の看板とか、雲とか、太陽なんかが、猛烈な勢いで、下界に落ちていくんです。これがまた、じたばたせず、静かに、静かに落ちていくんです」
「そうしたら、とつぜんね、ふと、俺は何でこの電車に乗ったんだっけ。ああ、そうだ、会社だっけ。あ、でも、何しに会社に? って」
「これが、思い出せないんだ」
「思い出せないんですよ」

 ばかぼんのままは椅子をきしませながら、
(三〇二号室の千羽鶴はいつ片付けようかしら。)
 などと考えていた。

「電車の床って、少し水のにおいがするんですよ」



(三)

 のびたは真夜中、洗面所の壁の隙間に帰ろうとしていた小さなゴキブリを殺した。黄色いプラスチックのコップで、冬の水を何度も叩きつけて殺した。
 足をばらばらばたつかせてゴキブリは、自身よりもずっと汚れた、黴と錆だらけの排水口に吸い込まれていった。
 鈍色に光る水と、のびたの唾と、歯磨き粉の混ざった、白いどろどろした泡の中で、ゴキブリは涙をにじませた。

「そんなことより、もっと一生懸命私を抱きなさいよ」
 と、しずかちゃんは笑った。



(四)

(ぼくはこれから母を葬る。)

 たらおは喪服の胸元を直しながら、その言葉を反芻した。
 棺の中の母は銅版画のようだった。

 たらおは母の部屋の雨戸を閉めた。
 四畳半南向きの部屋の真ん中に陣取り、母はずいぶん長い間、か細い死の予感で紡いだ繭の中で、帰路を指でなぞって暮らしていた。

 一人では動くこともままならなくなってから、母は急に癇癪を起こすようになった。母はたらおに怒鳴り散らした。
「誰のお陰でここまで大きくなれたと思っているんだ」
 たらおは笑って謝った。たらおの夕飯は冷たくなっていた。

 母の排泄物を処理しているとき、たらおはよく、母の手のやさしい厚みを思い出した。
(やさしい言葉はないものか。)
 思い出すたびに、たらおは、心の底に追放した何かがゆっくり息をしているのを感じた。
(小さなあぶくが、心の底から浮いてくる。)
 この頃たらおは、会社帰りに詩集を買うことが多かった。
(何か、やさしい言葉はないものか?)

「涙は安易に流されすぎる」
 祖母が死んだとき、母はそうつぶやいた。
「涙がたとえば、臭くてべとべとしていれば、そう易々と流されることもなかったでしょうに」
 たらおはその日の日記に、母の言葉を採集しなかった。ぼくはきっと、あの言葉を忘れられないだろう、という確信があった。

 棺の中の母は銅版画のようだった。

 息子の涙には、祝福が欠けていた。集まった弔問客の手前。



(五)

 下り列車の通路に、彼がいた。彼は今日も、彼にしかわからない言葉で詩を編んでいた。大半の乗客には、その詩はうなり声と奇声にしか聞こえなかった。中吊り広告には「最新家電」の文字が躍っていた。彼の頭はすっかり禿げていた。

 あられちゃんは、つり革をギュッとつかみ、無意識のうちにまた居留守を使っていた。夕焼けに染まる街の景色が目障りだった。

 あられちゃんは、暗い目の奥にうずくまり、その鮮やかな暗闇の中で、例えば、愛とかについて考えることにした。
 あられちゃんは整えられた美しい爪をぶら下げた細い指先で、まぶたの上から、自分の目を軽く触ってみた。

「こんな頼りないコリコリで? 世界のほとんどを知覚しているの? ねえ、なんだか泣きたくならない?」

 あられちゃんはそう叫びだしたい気持ちをぐっと堪えて、愛とかについて考え始めた。
 夕日が明日に帰る空の中で、雲が、何者かに見られようとして、身をよじっていた。