超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ブタ

 夕暮れの砂浜で、蚊取り線香のブタが、ひとり海を眺めている。すこしつかれてしまったのだ。蚊との日々に。見えない眉毛を八の字にして、ブタはため息をつく。ブタのため息は、蚊取り線香のにおいがする。ブタは蚊のことを何か考えたいのだが、何を考えてよいのかわからない。ブタは砂浜に寝ころぶ。うずまきの灰が砂の上に散り、散歩にきた飼い犬たちが、ブタを不思議そうな目で見ながら通り過ぎる。蚊……蚊を……蚊が……蚊に……。ブタが頭を使いすぎて目がかすんでくるころ、夕日が水平線の向こうへ沈むころ、ブタを買った家のおばあさんがブタのもとへやってくる。「うちの人も心配してるから、帰ろうね」ブタはゆっくりと体を起こし、コツコツと小さな足音をたてながら、おばあさんといっしょに海辺の道を我が家へと帰っていく。おじいさんはブタの小さな家出については何も言わず、その晩もいつもと同じようにブタの中に蚊取り線香を置き、酒を呑んで早々に寝てしまう。「今夜もお願いね」おばあさんは歯を磨きながら、ブタをそっと撫でる。ブタの口からは既に蚊を殺す香りの息が吐き出されている。夏の晩、ブタはおばあさんの歯磨きの様子を何度も頭の中で繰り返しながら、おじいさんおばあさんの寝息と、死んだ蚊が畳の上に落ちる音を交互に聞いている。見えない眉毛を八の字にして。