超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

一瞬

 魚屋の店先。やけに大きな蛸が一匹。よく見てみると、八本の脚のそれぞれに、ピアノの鍵盤に貼るドレミ……の丸いシールが貼られていた。何だ何だ、何なんだこれは。私があまりにもしげしげ眺めていたせいだろう、いつの間にか魚屋のおかみさんが傍にいて、「弾けるよ!」と満面の笑み。おかみさんが蛸の脚を手に取りぎゅっと押すと、蛸の口から何だかぽわぽわしたミの音が聞こえてきた。そういうことか。でも、弾けるよ、って言われてもなぁ。弾くタイミングないだろう、と思い結局何も買わずに帰ってきた。が、いつもの時間、夕飯の支度をしていた時、家族が出払ったいつものしんとした台所で、いつもの出汁の味をみていたら、ふいに独りの台所の静けさに寂しさを覚え、一瞬だけ、弾けるなら買えばよかったかな、と思った。ほんとに、一瞬だけね。