超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

逆上がり

 廃校が決まった小学校の、真夜中の校庭で、古ぼけた人体模型が、逆上がりの練習をしている。邪魔にならないようにと傍らに並べられたプラスチックの臓物が、月明かりに照らされておかしな形の影を伸ばしている。人体模型はぎゅっと鉄棒を掴む。インクで描かれた筋肉に力が入り、滲むはずのない汗が額に滲む。人体模型は一気に地面を蹴り上げる。しかし、脚は空を切り、彼はその場に尻もちをついてしまう。くそ、もう一度だ。

「ここはすぐに取り壊されるらしいから、そうなる前に、一緒に遠くへ逃げよう」
 この学校に搬入された日からずっと思いを寄せていた美術室の胸像にそう告白したら、
「じゃあ逆上がりをマスターできたら考えてあげる」
 と言われたのだ。

 胸像は、ずっと昔、この美術室で告白した男の子が、相手の女の子にそう言われていたのを思い出し、その場しのぎの冗談のつもりでそう答えたのだ。しかし、人体模型は本気にしてしまった。逆上がりなら、やり方はわかる。理科室の窓からずっと校庭を眺めていたんだから。きっと簡単だ。それから人体模型は毎晩、胸像には内緒で、逆上がりの練習に励むようになった。内緒にしているのは、胸像をびっくりさせてやろうという腹づもりらしい。人体模型は立ち上がり、お尻についた砂を払い、ぎゅっと鉄棒を掴む。胸像の美しい横顔をプラスチックの脳に浮かべ、一気に地面を蹴り上げる。だけどやっぱり、ちっとも回らない。おかしいな。本当に、やり方はわかっているはずのに。人体模型は首をかしげ、もう一度鉄棒を握りなおす。

 ……その一連の姿の頼りないこと。
 それにもし逆上がりをマスターできたとして、ぎしぎし軋むお前の腕と脚で、石膏の胸像を抱えてどこへ逃げようというのか。
 そして、逃げた先にどんな暮らしが待っているというのか。

 そんなことお構いなしで、人体模型は逆上がりの練習に精を出している。一晩中尻もちをつきながら、時折美術室の方に目をやって。

 同じ頃、胸像は美術室の壁に貼られたモナリザのレプリカと、世間話に花を咲かせている。モナリザは昔イタズラ小僧に眉毛を描き足された時の話を、大げさにして胸像を笑わせている。胸像はふと、校庭の方からかすかな物音を聞く。だが、その音はすぐにモナリザの声にかき消されてしまう。まぁ、何の音だっていいか。どうせすぐに取り壊されるんだから。