超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

勇気

 朝起きて洗面所の鏡を覗くと、耳から毛のようなものがちょろっとはみ出していた。俺もいよいよジジイだな、と悲しくなりつつ引っ張ってみると、それは、細くよじれた文字の塊だった。
「保険」「お義母さん」「世間」「左目」「スイッチを直して」
 そんな言葉が細切れになって、塊のあちこちから顔を覗かせている。

 ああ、そうか。
 昨日の夜、妻と口喧嘩をしているうちにいつの間にか寝てしまったのだが、これはその残り滓らしい。

 そのままゴミ箱に捨てるのも何となく嫌だったので、トイレに流すことにした。
 便器の蓋を開け、トイレが詰まらないように、文字の塊をほどいていく。
 すると、塊の中に「勇気」という言葉がやけに多く混じっていることに気づいた。

 勇気か。
 妻はなぜこの言葉を使ったのだろう。
 本来の意味としてだろうか、それとも、幼くして死んだ息子の名前としてだろうか。

 いいや。今考えても仕方がない。
 淡く汚れた便器の水から目を逸らし、水洗のレバーを捻ると、威勢の良い音とともに文字が流されていった。
 何だかどっと疲れて、トイレを出ようとした時、妻が扉の向こうで様子を窺っている気配がした。