超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

コツ

 友人と呑んだ帰り、一人公園に立ち寄って、ベンチで夜風を浴びていた。ちょっとうとうとしてきた頃、ふいに暗闇からやたら背の高い爺さんが現れた。手にはカップ酒が握られており、すっかり出来上がっている様子だった。
 爺さんは酒を呑みながら、何かを口の中でぼりぼりと噛み砕いていた。豆か煎餅かわからないが、何となく旨そうな音だ。そんなことを思っていたら、爺さんと目が合った。
「食べたい?」
「……ははは」
「へへへ」
「……あの、それ、何ですか?」
 爺さんは少し得意げな顔で夜空を指さした。見上げたが、そこには星空があるだけだった。
「何ですか?」
「よく見てて」
 爺さんはつま先立ちになり、空に手を伸ばして、ゆっくりと拳を握った。爺さんが手を引っ込めると、星が消えていた。
「あ」
「へへへ」
 爺さんは俺から少し離れた場所へ移動し、さっきと同じように空に手を伸ばして拳を握った。見上げると、やはりそこだけ星がなくなっていた。
「ははぁ……」
「ね」
「はぁ……」
「うん、うん、へへへ」
 爺さんは照れくさそうに頭を掻き、俺の隣に腰かけ、そしてまたぼりぼりやりはじめた。
「……旨いですか?」
「旨かないね」
「え、ああ……あ、でも、酒には合うんですか?」
「そういうわけでもないけど、まぁ、酒と一緒にやるのが一番だね」
「俺もその……何ていうんですか……採る?採れますか?」
「まぁ、ちょっとしたコツはあるけどね」
「へぇ……」
「うん」
「……あの、そもそも食べてもいいんですか?そういうのって」
「いやぁ、ダメだよぉ」
「でも、食べてるじゃないですか」
「……僕はね、戻れないから」
「戻れない?」
「……僕は、女房とせがれをね、これで、やっちゃったから」
 爺さんは無表情のまま続けた。
「でもね、もう戻れないから」
 その声には妙な圧迫感があった。何一つわからなかったが、それ以上何も言えなかった。そんな俺をよそに、爺さんはゆっくりと立ち上がった。
「ごめんね」
「あ、いや……」
「これやると喋りすぎるんだね」
「あ、そうなんですか……」
「風邪引くからね、早く帰った方がいいよ」
「……はい」
 暗闇に去っていく爺さんの背に俺はそっと尋ねた。
「……あの、すいません」
「何?」
「……さっき言ってた、コツって何ですか?」
 長い沈黙ののち、爺さんは言った。
「鈍くなることだね」
 爺さんは俺に力なく手を振り、やがて見えなくなった。