超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

 工事が始まった。窓を開けると、近所の廃墟にゆっくりショベルカーが近づいていくところだった。
 あの家は確か私のおばあちゃんが子どもの時にはすでに人がいなかったというから、かれこれ70年以上も廃墟だったことになる。
 その昔、一家が殺されたらしいとか、頭のおかしい女が住んでいたらしいとか、それらしい噂は常に付きまとっていたが、少なくとも、近所に住んでいる私たちが怪奇現象に遭遇したことは一度もないし、時々廃墟探検をしに来たと思われる連中が訪れることはあっても、家全体を覆い包むツタに阻まれてすごすご帰っていくのがオチだったので、結局あの家については誰も何も知らないまま取り壊されることになったのだ。
 私が中学生の時に市長が変わってから、この街の風景は急速に変わっていった。新しい建物が増え、道路が引かれ、それに呼応するように古い建物は潰され、あるいは建て替えられ、そしてその勢いに押されるようにあちこちの家が壁を塗り替えたり、リフォームを施したりして、気が付けば私の思い出の風景はすっかり別のものに上書きされてしまった。
 それ自体はまったく悪いことではないけれど、やはりどこか、寂しいな、とも思う。
 そんな中で私の、いや、この辺りに住んでいる人たちの記憶の中で、唯一変わらなかったのが、今取り壊されようとしているあの家なのだ。
 あの家、とうとう潰されることになったらしいよ。
 そんな話を聞いた日から、あの家の前を通りかかると、何となく視線を感じることがあった。
 しかしそれは幽霊話によくある、窓の向こうに、いるはずのない人影が……というようなものではなく、あの家そのものがこの街を記憶に焼き付けようとしているような、しみじみとした、どこか寂しげな視線だった。
 その視線も今日ついに断ち切られる。
 しんとした街のあちこちで、変わってしまったそれぞれの居場所から、街のみんながこの工事を見守っているのが感じられた。
 いつもは聞こえるテレビの音が聞こえない。たぶんおばあちゃんやお父さんもあの家の最期を見届けようとしているのだろう。
 現場監督の威勢の良い声が聞こえた後、ついにショベルカーが大きく首をもたげ、その歯を屋根に突き立てた。
 何万日も太陽の光と雨を浴び続けてきた屋根瓦がゆっくりと剥がれていく。
 何かを飲み込むようにショベルカーが一度頭を沈め、そして再び首を伸ばした。
 次の瞬間、野太い男の悲鳴が辺りに響き渡った。
 無数の視線に囲まれた中、何かに憑かれたようにショベルカーが動かなくなった。
 誰もが声を出せなかった。
 ショベルカーの歯に、尋常じゃない量の白髪が絡みついていた。