超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

くらげの看護婦さん

 真夜中の水族館、くらげの看護婦さんが、水槽の柔らかい砂の上をとことこと歩いていく。
 年老いた鮫の腹の音を聞くための聴診器と、絵を描くことが趣味の蟹の子のための点滴のパックと、マンボウのお母さんに飲ませるためのカプセルを詰めた鞄を片手に持って、温かい砂の上をとことこと歩いていく。

 水族館はもうとっくに閉まっていて、大ガラスの向こうには誰の姿も見えない。
 ひっそりと静まり返った薄闇が、ねばついているように見えるのは、昼間の混沌が沈んでいるからだろうかと、くらげの看護婦さんはぼんやり考える。
 そしてふいに東京に初めて来た日のことを思い出す。駅の汚い床、朝から降り続けていた雨、見知らぬ他人の群れ、それから……。

 ぼんやりとしていたくらげの看護婦さんは蛸壺につまずく。咄嗟に鞄をかばうように抱え込んで倒れたくらげの看護婦さんを、柔らかい砂は優しく受け止め、擦り傷一つなく彼女は立ち上がる。
 眠らない魚たちはくらげの看護婦さんに微笑み、彼女は照れくさそうに会釈して再び歩き始める。
 鼻の頭にくっついた砂を指で拭う時、彼女はかすかに潮の香りを感じる。
 可愛いお尻に、寝ぼけた蛸がぶら下がっていることには、まだ気づいていない。