超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ゆりかご

 昔住んでいた家の近所に、庭の木の枝にゆりかごがぶら下がっている家があった。

 ひと気はあるものの、誰が住んでいるとかそういうことは全然わからない家で、私は通学のために毎日朝と夕方にその家の前を通りかかり、木の枝にぶら下がったゆりかごを目にしていた。不気味で不思議な光景ではあったが、そのうちにだんだんと慣れてしまって、いつの間にかそれが当たり前の風景になっていた。

 ところがある時一度だけ、その枝がぐわんとしなっているのを見たことがあった。反射的に、ああ、今日はゆりかごの中に何か入ってるんだ、と思ったのを覚えている。だからといって中身を確かめられるはずもなく、いつものようにただ前を通り過ぎ、早く忘れることにした。

 そんなことがあったのは後にも先にもその時だけだった。

 

 その後私は就職して別の町に引っ越した。ゆりかごの家のこともすっかり忘れていた。

 ある日の帰り道に繁華街で一人の若い女とすれ違った。彼女と目が合った瞬間、久しぶりにあのゆりかごのことを思い出した。理由は全然わからないが、だからといって追いかけて事情を聞く気にはならないし、その事情が私を何かに巻き込むようなことになるのも嫌で、結局あの日と同じように何もせずやり過ごした。

 家に帰り飯の支度をし、いつものようにテレビを点けると、離れ離れになった親子が再会する番組をやっていたのだが、何となく観るのがためらわれてすぐにテレビを消した。

 しんとした部屋の中に、私が飯を噛む音だけがしばらく響いていた。