超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ボディ

 昨日風呂場のタイルにくっついていた妻の右目が、今朝は寝室の天井に移動していた。携帯の充電器の傍にあった小ぶりな耳に、おはようと声をかけると、昨日は玄関の靴箱の隅で苦しそうにしていた妻の唇が、今朝は寝室の窓ガラスにいて、おはようと明るく応えた。台所に行くと冷蔵庫に乳房がぶら下がっていて、牛乳を取り出すために扉を開けるたび、ぷるぷると揺れた。換気扇の下でぱちくりしている左目に見守られながら、スクランブルエッグを作った。寝室に戻り、窓ガラスの唇にスプーンで運んだ。いつも悪いねと妻が言った。何のことだよととぼけてみた。唇は苦笑いしていた。洗面所の壁に生えたお尻を撫でながら髭を剃り、便器の横で待ち構えていた左腕にからかわれながら用を足し、玄関の照明から伸びている右腕にキスをして、家を出た。会社に着くと、子どもが生まれたばかりの後輩が、お祝いありがとうございました、と言いながらワインをくれた。奥様にもよろしくお伝えください、と後輩は微笑んで頭を下げた。

 次の日は休日だったから、その夜は少し食べ過ぎた。廊下の壁に生えた妻のお腹も、心なしかぽっこりと膨らんでいた。後輩からもらったワインを飲みながら、妻と、何だか逆に申し訳ないな、なんて話をした。美味いワインだった。酔いが回ってきた。ベッドに寝転び、幸せだなとつぶやくと、天井の右目がまたたいた。ウィンクのつもりらしかった。思わず笑うと、窓の唇がすねたようにへの字に曲がった。本当に幸せだと思った。

 ある朝、台所からガシャン、と大きな音がして目が覚めた。行ってみるとシンクの両端からちぐはぐに伸びた妻の両腕が、床に落ちたボウルと砕け散った卵の前で呆然としていた。慌てて耳と唇を探す。しかし見つからない。家中に響くような声で叫んだ。

「どうしたの」

 寝室のクロゼットの中から声がした。

「いやー……今朝は体の調子が良かったから、たまには私がご飯でもと思ったんだけどね」

 扉を開けると、クロゼットの隅で、妻の唇はかすかに震えていた。

「ままならないねえ」

「何言ってんだよ」

 わざと明るく答えながら、台所に戻ろうとした。クロゼットの中から再び声が聞こえてきた。

「ままならないなあ」

 廊下の方から、涙がぽたぽたと落ちる音が聞こえてきた。