(一)
生まれたときの記憶が少しある。
大勢の足音が私の周りに錯綜している。その足音の隙間に「電池、電池」という甲高い叫び声が聞こえる。ほどなくして体の中にガチャンガチャン、という音が響き、直後に私は大声で泣いている。
それだけの記憶だ。
今日まで元気に暮らしてきたし、これからもきっとしばらくそうなんだろうと思うけど、ごくたまに風邪などひいたとき、そのことを思い出して、心臓がきゅっとなる。
(二)
夕暮れの窓辺にたたずむあの人の大きな耳をした影が、本を読んでるふりをしていた私の膝に柔らかく触れた。
私はそっと手を伸ばし、その大きな耳の影をちぎり、本に挟んで教室を出た。ドキドキしていた。ぼーっとしていた。
家に帰ってご飯を食べて、お風呂に入って、ゲームして、もったいぶってもったいぶって、真夜中過ぎに本を開いた。
あの人の大きな耳の影は、夏に関する詩の行間で、珍しくもない蝶々のようにひっそりと羽を休めていた。
私は石鹸とスナック菓子の匂う指で、影をつまんでそっと息を吹きかけた。そして今頃すやすや眠っているあの人がぴくりとするところを想像したら、ちょっとだけ面白かった。
ちょっとだけ面白かった。ちょっとだけしか面白くなかったことが、ちょっとだけショックだった。
私は慌ててどこかのバンドかドラマから借りてきた愛の言葉を、できるだけ大人っぽい声であの人の耳の影に囁いてみた。それから耳を澄ましてみた。何にも聞こえてこなかった。それがわかったら、もうやることがなくなった。
私は虚しい気分で、大きな耳の影を、本の間に挟みなおし、本棚の奥に押し込んで布団をかぶって寝てしまった。
次の日あの人に会ったら、影にはやっぱり耳が欠けていた。返してあげたかったけど、返し方がわからなかった。
それよりも、気まずくて、あの本はたぶん二度と開けないんだろうな。好きな本だったのに。そう考えたら、そっちの方が悲しかった。
(三)
「梁にロープをくくりつけ、テーブルに遺書を置いて、さていよいよだなというときに、ふとベランダを見たら、素晴らしい夕日と真っ赤な雲が目に入り、何となく、あの雲、掴めそうだな、と思って窓を開け、手を伸ばしたら、本当に雲を掴むことができまして、
「これは面白いと思い、しばらく手の中でもにゅもにゅと揉んで遊んでいたのだけれど、ちょっとした好奇心から、雲を夕日に近づけてみたところ、ちりちりちり、という音とともに雲の端が黒く焦げはじめて、あ、やべっ、と思って慌てて手を離したら、次の瞬間にもう雲は掴めなくなっていまして、
「手のにおいを嗅ぐと案の定、雲の焦げた、くさいにおいがこびりついちゃってて……
「ああ、余計なことするんじゃなかったなと。
「そのあとロープの輪に首を通しながら、これが漫画の一コマだったら、夕日の満ちる部屋にぶらぶら揺れる私の、だらりと垂れた手の先に、くさいにおいを表すにょろにょろっていう線が描かれるんだろうな。ちょっと間抜けだな。なんて、そんなことを考えながら、まあ、足元の台を蹴飛ばしました」
(四)
「はい。
「あ、これですか? これはですね……よいしょ、
「ここに女の子が寝てますね、ベッドで。
「で、この屋根を外して、ぜんまいを巻くと……
「女の子の上に太陽が昇って……沈んで……はい、夕焼け空ですね……で……三日月が……昇ってきて……
「で……女の子の真上で止まって……はい、
「三日月がギロチンみたいに落ちてきて、女の子の首をはねる、と。
「そういうおもちゃですね。
「はい?
「はい。
「はい。
「あ、はい」
「ありがとうございました」