超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

パートタイマー

 珍しく朝早く目が覚めてしまった。何か遠くで機械の音を聞いたのだ。しかし何だったのかはわからない。

 眠りなおすには半端な時間だったので部屋のカーテンを開けると、窓の外、夜が明けたばかりのきめ細やかな青色をさっと広げた空に、野球ボールのように真ん丸の、巨大な雲の塊がぽっかりと浮かんでいるのが見えた。

 はじめ月か何かと思ったが、どうやら雲らしい。思わずベランダに出て目をこらす。冷たい空気が辺りをひっそりと包んでいた。

 何度見てもそれは球状の雲の塊で、そのほかに何もない、今朝はなぜか鳥一羽飛んでいない青一色の空の真ん中に浮かんでいる様子は、配色を間違えた日の丸のように見えた。天変地異の前触れなのだろうか。しかし嫌な感じはしない。巨大な雲のボールは柔らかそうで、どこか間抜けで、かわいい感じがする。かじったら甘そうな気さえしてきた。寝起きの、まだ少し判然としない頭でそんなことを考えながらそれをしばらく眺めていると、ふいに、視界の両端に何か大きなものが音もなく現れた。

 見るとそれは、雲の塊よりも大きな一組の手であった。肌は白くて、指は細くて、そして皺だらけで、大きいのだけれどやはり威圧感や恐怖感はなく、私はいつか観た映画の優しそうな外国人のおばあさんの顔を思い出していた。

 おばあさんの手は雲の塊にゆっくり近づくと、食パンをちぎるように指先で雲をちぎり、それを空のあちこちに撒きはじめた。目の前の空が、徐々にいつも見慣れているふつうの空に変わっていく。へえ、そうか、こういうふうになっていたのか。その手際の良さと優雅な手さばきに思わず見とれていると、どこかでカメラのシャッターを切る音がした。

 道を挟んで向かい側の児童公園のジャングルジムのてっぺんに、カメラを持ったおじさんが腰かけて、興奮した様子で巨大な雲とおばあさんの手を写真に収めている。

 こういうのって撮ってもいいのかな。

 なぜだか急に嫌な予感がした。

 はらはらしていると、おばあさんもシャッター音に気付いたらしい。おばあさんの掌はぴたりと作業の手を止め、ちょっと考えるような素振りを見せたあと、人差し指をピンと立てたかと思ったら、驚くような速さで飛んできて、まるで羽虫を潰すようにおじさんをぷちっとやってしまった。私は慌ててベランダの陰に隠れた。おそるおそる頭上を仰ぐと、おじさんは何だかわからないものになって、おばあさんの指先にこびりついていた。

 私はベランダからそっと顔を出し、事の成り行きを見守った。おばあさんが怒ったのではないかと思ったのだ。しかし、おばあさんの手は何事もなかったかのように作業を再開し、やがて雲をすべて空に撒きおえると、あっけなくすっと消えていなくなってしまった。

 入れ違いに朝日が本格的に昇り始め、家の屋根屋根の輪郭と撒かれたばかりの雲の縁が白銀に光り出した。いつの間にか鳥も飛んでいる。どこかで窓を開ける音がする。街が動き始めたのだ。

 私はどきどきする胸をおさえながら、先程までおじさんが座っていたジャングルジムを、ぼんやり眺めていた。するとほどなくして空の彼方から、タイムカードを打刻する音が聞こえてきた。今朝聞いた機械音はあれだったのか。