超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

コーヒーと唇

 いつものように朝食の匂いが漂う廊下を寝ぼけ眼で踏みしめ、台所の扉を開けると、コンロの前に妻の姿はなく、ただテーブルの上の真っ白い皿に、妻の首が載せられてあるだけだった。

 首だけになった妻は不満げに眉間に皺を寄せ、じっと目を閉じている。適当に束ねられた白髪の頭が朝の光りにきらめいていた。両耳の穴と薄く開いた唇の隙間からはぼやぼやと湯気が立っていて、その湯気に鼻を近づけると、右耳の湯気は目玉焼きの、左耳の湯気はトーストの、唇からはコーヒーの、それぞれ匂いがしていた。

 どれも非常に食欲をそそられる匂いだったが、どうやって食べればいいのかがわからない。あたふたしているうちに出勤の時刻になってしまった。とりあえずコーヒーだけでもと思い、何年かぶりに妻の唇に吸い付いてみたが、コーヒーの香りがするぬるい空気が溜まっているだけで、結局腹の足しにはならなかった。

 空きっ腹を抱えたまま出勤し、その日は午前中から調子が出ず、何だか妙な感じのまま仕事をして家に帰った。

 もうこんなことはこりごりだと思いながら扉を開けると、台所の妻の首は朝と変わらず皿の上にあった。湯気はもうさすがに尽きたらしく、鼻の頭にわずかに滴が残っているだけだった。皿から持ち上げると首は驚く程軽く、かさかさに乾いていて、それを手の中でこねくり回しているうちに、何だか食欲がなくなってきた。しかし何も食わないわけにもいかないので、冷蔵庫から缶ビールと松前漬を出して適当につまみ、さっさと寝ることにした。妻の首はそこらに捨てるわけにもいかないので、風呂場に置いておくことにした。根拠はないのだが、湿気の多い場所の方がいいんじゃないかという気がした。

 布団に潜ったあと、胃がきりきりしてしばらく眠れなかった。それでもとにかく明日もあるから、目を閉じてじっとしていたら、風呂場の方からごろんという物音がした。妻の首が何かの拍子に転がった音だと今では解るが、そのときはどういうわけか、妻が何か言ったのだと考えて、それで余計に胃が痛んだ。