超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

歌声

「歌っていてもいい?」

 と彼女は私に尋ねた。私はナイフとフォークを構えたまま頷いた。

 白い皿の上に横たわりながら彼女は、小さく口を開いて、私たちが幼い頃に流行っていた外国映画のテーマソングを、私たちがはじめて互いの唇を真剣に見つめたあの頃に流行っていたあの旅の歌を、かぼそい声で歌いはじめた。

 私は彼女を脚の方から少しずつ口に運んだ。彼女の柔らかい肌にナイフを入れるたび、その傷口から、かつて彼女が私の家の裏庭で摘んだ花の香りや、二人で海岸を歩いたときの太陽の熱や、誕生日に贈った古い詩や、電話ボックスの静けさや、そういうものがあるものは粉のように、あるものは水蒸気のように飛び出して散っていった。懐かしいいろいろが私の胸をくすぐっては消えていくその目の前で、彼女はそ知らぬ顔をして、昔と変わらぬその声で、少しやる瀬無いその声で、機嫌よく歌い続けていた。私は出来るだけ慎重に、皿とナイフがぶつからないように、静かに静かに彼女を食べ進めていった。

 

 やがて彼女の唇だけが皿の上に残された。

 歌い続けるその唇を、私はフォークの先に刺し、ゆっくりと口に運んだ。そして噛まずに飲み込んだ。彼女の唇はびっくりするほど熱くて、私は喉を火傷しそうだった。

 それから私はナイフとフォークを置き、目を閉じて、彼女の唇と歌声が、喉から胃へと落ちていくその感覚を逃さないように意識を集中した。だんだんと彼女の歌声が、腹の奥で霧が晴れるように小さくなっていった。そして、すべて消えてしまうその直前に、彼女は歌を止め、何かをつぶやいた。とても小さな声だった。それが最後の声だと理解しながら、彼女が何と言ったのかが知りたくて、私はじっと耳を澄ました。それきり何も聞こえてはこなかった。やがて深い静寂が辺りを包み、私はそっと目を開けた。彼女のいない食卓に、新しい朝の光が満ちていた。