ある水族館の、薄暗い水槽の底に、蛸が一匹生きている。
かつて水槽を満たしていた、腐った海水は干上がり、隠れ家にしていた飾りの岩も、なよなよとした海草も、今ではすっかりひびわれて、乾いた埃が表面をうっすらと覆っている。
蛸の体はやけに瑞々しい。だらりと伸びたアシもキュウバンも、ぬるぬる光って健康的だ。
その一本のアシのキュウバンに、古い文庫本をくっつけて、蛸は日がな一日読みふけっている。そこにはかつて、同じような境遇に置かれ、物すごい欠乏と不満を抱いて自滅していった、他蛸の話が載っている。
蛸はそれを鼻で笑う。うまいやり方でやらないからさ。現に私は水槽が干からびた今も、こうして元気に生きている。
蛸の傍らに、蛸壺が一つ置かれている。
蛸は文庫本から顔を上げ、蛸壺をうっとりとした目で見つめる。蛸壺の中には、色とりどりの錠剤がぎっしり詰まっている。七本のアシのキュウバンに、かわるがわる錠剤をくっつけて、日がな一日ぽりぽりと噛み砕きながら、蛸は生きている。ある水族館の、水のない水槽の底で、そうやって蛸が生きている。