(一)
夜中トイレに起きると、家の廊下に男が背を向けて立っていた。
男はマグリットの絵の中に突っ立っている、山高帽の紳士にそっくりで、手には汚いトランクをぶら下げていた。
誰だ、だか誰ですか、だかと私が尋ねると、彼は私に背を向けたまま、ひやりと冷たい廊下に跪き、錆び錆びになったトランクの錠を開けた。
古びた革の箱の中には、丸めた紙屑がぎっしり詰まっていて、男はそれらを一枚一枚、丁寧に広げて何かを確かめている。
誰だ、だか誰ですか、だかと私が尋ねた、その答えを探しているらしい。
弱々しく灯る蛍光灯が、彼の脂っぽいうなじを照らしている。
しょんべんのことなんか忘れてしまった。
長い夜になりそうだ。
(二)
久しぶりに妻を抱いたら、左腕から先が砂漠になっていることに気がついた。
妻の耳たぶを噛むたびに、シーツの上に砂がこぼれた。
背中に舌を這わせるたびに、砂に風紋が刻まれた。
遠くのサボテンの一本に、鈍色に光る指輪が見えた。
「いつからこうなっていた?」と尋ねたいが、喉が渇いて仕方ない。
細かく光る砂の中に、そっと指を忍び込ませると、妻は寂しそうな顔をする。
大きな荷物を背中に載せた、駱駝の影が遠くから、私たちの営みを見つめていた。
(三)
(夕暮れにアパートの一室があり、狭いリビングには裸の女が倒れている。)
(女の細い首には、絞められた痕がある。大きな掌の誰かに殺されたらしい。かの女の閉じられた目蓋の下から、涙が止めどなく流れており、)
(薄く開いた唇からは、かすかに声が漏れている。)
「畜生、ちくしょう」
(窓の外では刻々と夕日の色が濃くなってゆく。)
(涙は女の頬を伝い、畳を湿らせている。涙は止めどなく流れる。やがてかの女の涙は夕日のひかりに煮詰められ、ぷくぷくと泡立ち、花の蜜になる。)
(狭い部屋に、蜜の甘い甘い匂いが満ちる。)
(夕日は益々優雅に沈む。)
(どこからか小さな羽音が聞こえる。)
(蜂の群れが女の目蓋にたかっている。)
(蜂たちは喉を鳴らして我先に蜜を飲んでいる。蜂が羽を震わせるたびに、女の長いまつ毛が揺れる。)
(女の涙は流れ続けて、夕日はそれを蜜にする。)
(女の体はじわじわと、冷たい血液に蝕まれていく。)
(満腹になった蜂たちが、難儀そうに羽を開く。)
(夕日はすっかり沈んでしまって、)
(甘かった蜜は熱と色を失い、元の涙に変わっている。)
(女の顔は、蜂どもが飲み散らかした蜜と涙の跡に覆われ、腐ったガラス細工のように見える。)
「畜生、ちくしょう」
(ふいに女の声が、唇の奥から絞り出される。)
(蜂たちが動きを止め、顔を見合わせる。)
「……」
(蜂たちは夜の闇を固めたような瞳いっぱいに、女の姿を映している。)
(やがて蜂たちは開きかけていた羽根を閉じ、女の体のあちこちを這い回り、小さな顎を動かして、女の白い肌に牙を立てる。)
(深夜の橋下。青い車。)
(運転席に、スーツの男が虚ろな目で座っている。)
(男は携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけようとするが、すぐに諦めたように頭を振り、電源を切る。)
(男はハンドルに突っ伏して唸り声をあげる。額には汗をかいている。)
(どこからか小さな羽音が聞こえる。)
(男はふと顔を上げ、周りを見るが、何もいない。再び突っ伏して目を閉じる。)
(小さな羽音が止まない。羽音は眠気を誘うリズムで響く。)
(男はいつの間にか寝てしまう。)
(男の寝息が響く車内。)
(ルームミラーに映る後部座席。)
(シートの上に、白い手首が落ちている。白い手首の赤黒い根元で、蜂の群れがせわしなく働いている。)
(蜂たちは手に持った肉片を少しずつ繋ぎ合わせ、女を車の中に運ぼうとしている。)
(夜の闇が深くなっていく。)