ミロのヴィーナスは、ダッチワイフとレストランで食事したがらない。
ダッチワイフがパンにバターを塗るとき、それから給仕にチップを渡すとき、熟れて落ちた海底の両腕を思い出すからだ。
ダッチワイフが息を吐くたびに、石鹸の匂いがするのも気にくわない。ヴィーナスの腋からは埃の臭いがするからだ。
「わたし、ときどきおとこのひとにらんぼうされるのよ」
しかし、そのおとこたちの吐息が露となり、ダッチワイフの血管を流れ、ビニールの心臓を動かしていることをヴィーナスは知っている。
「落としたんじゃなくてね、あなたは腕を脱ぎ捨てたのよ」
その昔、ヴィーナスの母たる人はヴィーナスにそう諭したが、ヴィーナスはいまだにその言葉の真意を掴みかねている。
ダッチワイフはオレンジを剥き、むちむちした指でそれをヴィーナスの口へと運ぶ。ねばねばした口の中が騒がしい果汁で満たされ、ヴィーナスの思考は断ち切られる。
厨房では、コックが肉切り包丁を握り締めたまま頬を赤らめている。
昨日、社員寮でダッチワイフを抱き終えたあと、ベランダに出て夜空を見ていたら、急に詩を書きたくなった。コックは、新米の頃、牛や豚をバラバラにする手順をメモした大学ノートを、久しぶりに押入れから引っ張り出してみた。すやすや寝ているダッチワイフが起きたら、一番に見せてやろう。コックは鉛筆を手に取った。
星座に沿って
刃を入れて
宇宙をバラして
タイムカード押す
「……ん、ん、ん……」
だめだ。つまらないことを書いてしまった。ところが、丸めて捨てようとしたとき、ダッチワイフがいつの間にか目を覚ましていて、うっとりとした瞳でノートを覗き込んでいるのに気がついた。
「すてき。まるでシみたいね」
コックは耳まで真っ赤になった。
「だけど、宇宙って、筋ばっかりでおいしくなさそうね」
そう言ってダッチワイフはまた寝てしまった。
コックは昨日のことを思い出し、地団駄を踏むと、客に出すはずだったローストビーフを牛の血がこびりついた爪でつまみあげ、煙草臭い口の中に放り込んだ。
厨房の隅で墓石のようにふてくされている生簀の底に、ヴィーナスの腕が落ちている。今日も誰にも気づかれなかった。
据わった目をした蛸が寄ってきた。あの晩、同じ網にさらわれた中年の蛸だ。
「お前、イカに似てるな」
蛸はそれだけ言ってごろりと横になった。腕は恥ずかしそうに身をよじった。
「こんな世の中間違っている」
そんなことを叫びたい気分だった。口がないことも忘れているのだ。
蛸は天井を見ながら、海に残してきた女房の浮気を心配している。