超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

ロミオとジュリエット

 人なのに豚として飼われてきたせいか、豚なのに人として育てられてきたせいか、自分が何者なのかよくわからない。
 主人たる人は皺と骨以外何も特徴のない老いぼれも老いぼれで、私のことをおまえ、おまえと呼んでいた。
 私たちはきたないアパートの一室にせせこましく暮らしていた。物らしい物は何もなく、ただ私の食事の皿と、錆びた柄に主人の名前が彫られた古いナイフだけが、部屋の隅に転がっていた。そんな状態でも私は飢えた思いをしたことがなく、また寂しいと感じたこともなかった。
 主人はどうやって調達してくるのか、自分が食べない日でも私の食事は日に三度必ず用意し、そして私が食べるところをにこにこしながら見ていた。また天気の良い日は窓を開け、私の頭を撫でながら、毎回ディテールの変わる昔話を聞かせたり、変な節の子守唄めいたものを歌ったりした。そしてその終わりに悲しい顔をして、おまえは……でよかったなと言うのだが、……の部分はいつもよく聞こえなかった。

 ある年の冬、雪が何日も降り続き私は体調を崩していた。主人はつきっきりで色々と手を尽くしてくれたが、その手というのが、励ますような歌を歌うだとか、私を腕の中に抱いて温めるだとかそういうもので、別に悪い気はしなかったが、病気の快復には何の役にも立たず、主人が折角用意してくれる三度三度の食事も、次第に喉を通らなくなっていた。
 もうそろそろダメかもしれないとぼんやり考えていたある晩、すっかり晴れた夜空に浮かぶ真ん丸のお月様を眺めて、私がめそめそ泣いていると、主人はやおらナイフを手に取り、とても低く穏やかな声で、……、と何かわからないことを言った。
 そしてすと立ち上がり、部屋の窓を開けた。冷気がさざ波のように畳の上を流れた。
 主人は窓枠に足をかけ外に身を乗り出すと、持っていたナイフをお月様に突き刺した。それから目にも止まらぬ速さでお月様の皮を剥ぎ、それで私の体を包んでくれた。お月様の皮は驚くほど温かかった。主人はもう一度窓に戻り、残った肉をこま切れにして、私の口に少しずつ運んでくれた。お月様の肉は、甘く、柔らかく、一口食べるごとに手足の先が心地よい痺れに包まれた。
 主人はにこにこ笑っていた。
 やがてその笑顔のまま動かなくなった。夜空のどこからか矢のような風が吹いてきて、主人の体は粉になり、部屋に散らばった。私はそれを見ながらいつの間にか眠ってしまった。
 朝目覚めてからその粉を少し舐めてみたが、何の味もしなかった。