超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

窓と盗まれた赤ん坊

 ラジオをつけた。日付が変わる頃、口紅のCMが流れて、ニュース番組が始まるのだ。
 彼は文庫本を読みながら、病院から赤ん坊が盗まれたというニュースを聞いた。聞いているうちに、どういうわけか彼は、むしょうに不安になってきた。子供どころか妻もいないのに、妙に落ち着きがなくなって、何を読んでいるのかよくわからなくなった。本に印刷された文字が端から目の外へざぁざぁ流れていくような気がした。
 彼は文庫本を放り投げ、ベッドから身を起こすと、夕方には既に閉めていたカーテンをざっと開け、窓の外を見た。夜が紫色に膨らんで、町をごりごりと飲み込んでいくところだった。ラジオは次のニュースを読み上げていた。彼は文庫本を閉じ、ラジオを消した。それからしばらく窓を眺めていたが、いつの間にか眠りに落ちた。

 カーテンを開けた。酸味の強い光が目に飛び込んできた。朝だ。彼は枕で視界を覆い、それからゆっくりと窓の外を見た。
 交差点にすごい数の自動車がひしめいていた。時計屋の店先で、老人がたばこを吸っていた。自転車に乗った少女が、あくびとともに朝を吐き出していた。窓枠には蛙が一匹、朝日で長く伸びた影の上で彼をじっと見つめていた。
 どれも見慣れたいつもの風景だった。彼はふと晩のラジオのことを思い出した。この窓の中にいる誰かが、赤ん坊を盗んだのかもしれない、と彼は思った。

 ラジオをつけた。日付が変わる頃、口紅のCMが流れ、ニュース番組が始まった。また赤ん坊が盗まれたという。彼は文庫本を閉じ、カーテンを開けた。町は真っ暗闇で何も見えなかった。

 カーテンを開けた。窓の中には昨日と同じ、朝の風景が広がっていた。しかし、油断はできなかった。
 自動車の中はどれも暗くてよく見えないし、時計屋の店内にも赤ん坊を隠す場所はいくらでもある。少女の持っているスポーツバッグは昨日より膨らんでいる気がするし、蛙の頬も大きくなっているように思う。やはりこの中の誰かが赤ん坊を盗んだのかもしれない。彼はその日、一日窓を見て過ごした。

 ラジオをつけた。日付が変わる頃、口紅のCMが流れ、ニュース番組が始まった。また赤ん坊が盗まれたという。彼は文庫本を閉じ、盗まれた赤ん坊の母親たちがすすり泣く声を聞いていた。彼の胸の内で、正義のカスみたいなものがちろちろと燃えていた。

 カーテンを開けた。窓の中には昨日と同じ、朝の風景が広がっていた。しかし、油断はできなかった。
 彼は間違い探しをするように、窓の中をくまなく点検した。だが自動車は速すぎて、時計屋の店内は暗すぎた。少女の胸は大きすぎるし、蛙は小さすぎた。この中の誰かが赤ん坊を盗んだには違いないが、誰が犯人かはわからなかった。彼は双眼鏡を買うことにした。

 ラジオをつけた。赤ん坊はまた盗まれた。

 カーテンを開けた。朝の風景は昨日と同じで、それでいてどこか違うように思われた。

 ラジオをつけた。赤ん坊はいくらでも盗まれた。

 カーテンを開けた。怪しい箇所はいくらでもあった。

 ある晩、彼は文庫本を閉じ、カーテンを開けた。町のあちこちから、赤ん坊たちの悲痛な叫びが聞こえてくるような気がした。正義のカスは積もり積もって、彼の胸に大きめの炎を立ち上らせていた。
 しかし、闇に包まれた町を睨んでいるうちに彼はふと、この町で赤ん坊を盗んでいないのは自分だけなのではないか、と思った。彼はむしょうに不安になった。ベッドから飛び降りると、慌てて上着を手に取り、病院の場所を地図で調べた。そのときラジオが、病院の新生児室がとうとう空っぽになったことを伝えた。彼は呆然とその場に立ち尽くし、すぐに悔しくなって、朝までぎゃあぎゃあ泣いた。