超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

橋ともこもこ

 夜に、古い橋の上で電話をかけていた。電話の相手は最近知り合った女の子だった。もう何時間話しているかわからない。受話器から伸びた長いコードが、へたへたと橋の上でくたびれている。
 橋の下を、用水路がざざあざざあと流れていた。闇の中から立ちのぼってくるどぶのにおいが鼻をついた。私はなにか冗談を言った。受話器の向こうで、女の子が笑った。柔らかい声がかわいくてたまらなかった。
 水の流れが変わった。ふと見ると、用水路の壁にかかっている錆びた鉄の梯子を、大きな男が降りていくところだった。男が足をかけようとしている梯子の先の方は、闇を吸って黒々と光る水の中にすっかり溶け込んでいる。危ないと思ったが、女の子が何か冗談を言ったので、思わず笑ってしまった。
 その笑い声が辺りに響き、男が動きを止めてこちらを向いた。私は思わず目をそらしたが、男の視線がこめかみの辺りにずっと張り付いているような気がしたので、後ろを振り返り、今まで肘をついていた欄干を背もたれにして、用水路の上流を見ながら電話を続けることにした。

 上流の方は変に明るくて、水面に映った月が揺れながら輝いていた。その上を色々なゴミや、濁った泡が流れていった。用水路の両方の岸には同じような家が建ち並んでいて、窓からは一様に明るい光が漏れていた。もう晩飯の時間だった。私が冗談を言うと、女の子は大声で笑った。その笑い声を聞くと、私はいい気分になり、また違う冗談が浮かんできた。それで女の子はひっきりなしに笑い、冗談の種は尽きなかった。
 女の子が話す番になった。彼女は最近読んだ漫画の話を始めた。私は上流の景色を見ながら、その話に耳を傾けていた。女の子が冗談を言った。私は笑った。建ち並ぶ家々の窓から、白い湯気がゆらゆらと漂っていた。風呂の時間になっていた。そのときふいに、一件の家の灯りが点いていないことに気がついた。私は急に嫌な気持ちになった。

 背後で何か物音がした。私は女の子の話を聞きながら、後ろを振り返った。闇に覆われた水の上を、何か大きなものがすべるように流れていた。女の子が冗談を言った。私は笑いながら、その流されていくものが何なのか確かめようと目をこらした。それは死体だった。
 私はとっさにさっきの大男を思い出した。しかし、いくら目をこらしても、死体があの男なのかはわからなかった。死体は川の流れよりもずいぶんゆっくりと、死体自身が決めたスピードで下流へ下っていくようだった。
 私が話す番になった。話題はいくらでもあったが、死体のことが気になってうまくまとまらなかった。女の子が不安そうな声を出した。私は観念して、目の前を流れていく死体のことを彼女に話そうとした。
 しかし、死体について話そうとしたとたん、受話器に開いたぽこぽこした穴から、何か白いもこもこしたものが溢れ出てきて、唇をしきりにくすぐってきた。声がめちゃくちゃに乱れた。女の子が受話器の向こうで首をかしげているのがわかった。私は慌てて別の、映画か何かの話を始めると、その白いもこもこは受話器の穴の中にすっと消えていった。

 死体はゆっくり、ゆっくり用水路を流れていった。私は当たり障りのない話をしながら、死体から目が離せないでいた。
 ふいに、死体の顔のすぐそばで小さな波が立ち、その目玉を濡らした。瞳はまっすぐ私を見ていた。私は反射的に、電話を握りしめて橋の上に立つ私の姿と、動かない体にまとわりつく水の冷たさを同時に想像してしまい、ぞっとした。そして、今目を閉じて、もう一度開けたら、いつの間にか私とあの死体が入れ替わっていた、なんてことになるかもしれないと考えて、泣きたくなってきた。
 どうしてもあの死体のことを話して、女の子に助けを求めるしかないと思うのだが、そう思ったとたん、また受話器の穴から白いもこもこが溢れてきて、唇をくすぐった。必死に抵抗するが、白いもこもこはいくらでも出てきて、とうとう唇は痺れて動かなくなってしまった。受話器の向こうで、女の子が私の冗談を待っている息づかいが聞こえていた。
 どこかでどぼん、と大きな音がした。橋がびりびりと震えるのが欄干から伝わってきた。やがて用水路の水が少しずつ嵩を増して、鉄の梯子を飲み込んでいった。死体が私を見つめたまま、闇の中からせり上がってきた。私はどうしようもなくなって、橋の上にへたりこんだ。すると何も話していないのに、耳元でとつぜん女の子が笑った。