超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

濡れた足跡と『ラストダンスは私に』

 濡れた足で歩く病院の床は、ぺたぺたんとかわいい音がした。僕の体から、水のにおいがした。部屋は蛍光灯の光で満たされていた。時々雨を含んだ風が、ガラス窓をカタカタと揺らした。
 部屋の中央には白いベッドがそびえていた。柔らかい指を使ってよじのぼると、僕の母さんが眠っていた。僕は母さんの顔を覗き込んだ。母さんはかわいい顔をしていた。寝息は歯磨き粉の匂いがした。
 そのかわいい顔のそばに、つるんとした機械が置かれていた。機械からは太いチューブがいくつも伸びていて、それは部屋のあちこちを這い回って、また別の部屋へ繋がっているらしかった。その様子は頼もしくもあり、気味の悪い感じもした。
 機械の黒い画面には、母さんのお腹の中が映っていた。その中には本当は僕がいるはずだった。しかし今は、温かい水の中に、栞が一枚ただよっているだけだ。
 僕は濡れた掌で、母さんの頬に触れた。それから小さな声で『ラストダンスは私に』を歌った。英語を知らないから、歌詞はでたらめだったけど、すごく上手く歌えた。母さんが少し笑った。僕はベッドを降り、濡れた足でぺたぺたんとかわいい音を立てながら、病院の床を歩き続けた。ほどなくして僕は、またいつの間にかいなくなっていた。