超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

卵と切り取り線

 妻が産んだ卵にはあらかじめ切り取り線が入っていた。
 取り上げた医者は唇をしきりに舐めていた。看護婦は目の端をぴくぴくさせていた。
 私と妻はずっと黙っていた。退院の日まで、ずっと黙っていた。
 退院の日は快晴だった。他のうちの卵が次々とふ化していくのを後目に、私と妻は病院をあとにした。

 帰りの電車の中で、私は妻に席をゆずった。妻はしばらく自分の影を見つめていたが、やがて眠りに落ちてしまった。私は百貨店の大きな紙袋に入れた、私たちの卵を持ったまま、車窓を流れる家の屋根屋根を眺めていた。
 卵はずっしりと重かった。
 私はこれからのことを少しだけ思った。

 切り取り線の入った卵は、ハサミか、ナイフとともに、どこか部屋の隅にでも置かれている。私と妻はその存在の重さをこめかみやつむじに感じながら、ごく自然に見えないふりをして、飯を食ったりテレビを眺めて暮らしている。会話は増えた。だが、その中身はすかすかだ。
 ある晩私は目を覚ます。狭いアパートの一室に、薄汚れたカーテンが見える。中途半端なサイズの衣装ケースと、育児雑誌の束と、コンビニ袋と、ゴミ箱からはみ出た割り箸が見える。そういう家具に囲まれた冷たい布団の上に、私と妻が横たわっている。時計は午前2時を指している。
 視界の隅に、卵が転がっている。寝ているうちに倒してしまったのかもしれない。私は体を起こし、卵を立てる。
 自然と、切り取り線を見ないようにしている。
 卵は温かく、重く、動かない。ヒビ一つ入っていない。
 私はハサミを手に取り、刃を開く。そのままじっとして、そこから何が出てくるのかを想像しながら、朝を迎える。
 外から子どもたちの学校に行く声が聞こえてくる。私はハサミを置く。ずっと曲げていた背を伸ばす。骨が鳴る。
 今度は指をハサミの形にして、切り取り線をなぞっていく。そこから何が出てくるのかを想像しながら、私の指は切り取り線を一周する。
 ふいに妻の呼吸のリズムが変わる。私は卵を元の場所に戻し、妻の顔を覗き込む。うっすらと目を開けた妻が、どこか遠くを眺めている。

 私の目の前を、明るい色の屋根屋根が通り過ぎていった。私たちが降りる駅が近づいてきた。
 私は紙袋をそっと網棚に置いた。できるだけ静かに、電車の扉が開いてくれることを願った。
 妻の呼吸のリズムが変わった。私は妻を見た。
 うっすらと目を開けた妻が、私を見て泣いていた。