超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

駅と口笛

 朝の満員電車に揺られているとき、不意に胸に何か違和感を感じてそっと手を当ててみたら、ピクリとも動かなかった。心臓が止まってしまったようだ。なぜかほっとして窓の外を見ると、まだ一月だというのに馬鹿でかい入道雲が空の真ん中でふんぞり返っていた。それを眺めていたら会社に行くのも自宅に戻るのも馬鹿馬鹿しくなったので、すぐに電車を降りて、できるだけ遠くに行ける切符を駅員に見繕ってもらった。受け取った切符はぺたぺたした質感の紙で出来ていて、掌に乗せていると肌に吸い付いてくるような気がした。
 駅員に礼を言ったあと、残った金でキオスクのウィスキーを買い、電車に乗り込んだ。車内は広々としていて、それなりに人がいたが、空いている席もたくさんあって、どのくらいの人が乗っているのかよくわからなかった。
 適当な席に座り、目をつぶると、家族や昔付き合った女の顔が浮かんできたが、しゃぼん玉が弾けるように消えて、それから後は誰の顔も思い出せなかった。気がつくと電車は動いていて、ただひたすら真っ直ぐな線路を延々と走っていた。定期的にアナウンスが流れて、知らない駅の名前が読み上げられていく。別にどこで降りても構わないが、腹が減ってきたので次に止まった駅で降りることにした。
 ドアが開くと、やけに蒸し暑かった。駅は田舎町の景色の中に静かに佇んでいて、牛糞と草のにおいがした。待合室には懐かしい歌手のポスターが貼られていた。誰もいなかったので口笛でその歌手の曲を吹くと、風もない日だったせいか、暑さのせいか、口笛が逃げようともせず、ふわふわと私の鼻先を漂っている。易々と捕まえることができたので、ウィスキーの瓶に閉じ込めて思い切り振り、頃合を見てもう一度呑んでみた。味は別に変わらなかったが、ときどき前歯の裏に口笛が当たって涼しげな音を立てるのが面白かった。
 そのうち酒が胃の壁に沿って下へ流れていく感覚で空腹を思い出し、辺りを見回してみたが、飯が食えるような場所は見つからなかった。降りる駅を間違えたようだ。仕方がないので次の電車が来るまで待つことにした。止まった心臓の捨て方も考えなければならない。私はウィスキーを飲み干し、待合室のベンチに寝転んだ。酔いは回ってこなかった。