超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

夜道と哺乳瓶

 夜道を歩いていた。繁華街を抜け、学習塾や民家が立ち並ぶ静かな通りに出た。道の両側には、弱々しい街灯の灯りが真っ直ぐに続いていた。辺りには誰もいなかった。
 肌寒さを感じ、ポケットに手を入れた。季節は秋から冬に移ろうとしていた。冷えた小銭が指先に触れた。ふと目をこらすと、整然と並ぶ街灯の列の谷間に、自動販売機の光が見えた。急に何か温かい飲み物が欲しくなった。
 早足で自動販売機に近づくと、その猛烈に明るい光の前に、誰かがうずくまっているのが見えた。
 女だ。若い女だ。具合でも悪いのだろうか。声をかけようとすると、女は持っていた紙袋の中から哺乳瓶を取り出した。それからおもむろに服をめくり大きな胸をぼろんと出すと、瓶の中に乳をびゅーびゅー詰めはじめた。その顔があまりに真剣なので、私は声をかけるタイミングを逃してしまった。慌てて道を少し引き返し、電柱の影に隠れて女の様子を見ることにした。
 女は哺乳瓶を乳で満たすたび、それを自動販売機の取り出し口から機械の中に押し込んでいった。どうやっているのか遠目ではよくわからなかったが、女が取り出し口に青白い腕を突っ込むたび、販売機は大きな音を立ててガタガタと揺れたので、あんなに夢中になっているのだから、私が盗み見ていることには気づいていないのだろうと思って安心した。販売機の光は強く乱暴に輝き、女の顔も、乳首も、その先からほとばしる乳も、すべてが青白く見えて、何だかその空間だけが世の中と切り離されているような感覚を覚えた。
 女の紙袋からはいくらでも哺乳瓶が出てきた。また母乳の勢いも衰えることを知らなかった。しかし販売機の方は、もう既に結構な数の哺乳瓶を突っ込まれているのにも関わらず、はじめに見たときと変わらない様子で澄ましていた。女はそれが気にくわないとでもいうように、益々意地になって哺乳瓶を放り込んだ。
 ふとどこかで犬の鳴く声がした。私はそこではじめて、さっきからこの道を誰もを通らないことに気づいた。まだそれほど深い時間でもない。おかしいな、と思ったとき、女がはだけていた服を戻し、すっと立ち上がった。それから紙袋を丁寧に畳み、こちらに向かって歩いてきた。
 私は心臓が止まるかと思うほど驚いて、咄嗟に電柱の影の中にしゃがみ込んだ。女は私に気づかず、そのまま夜道の中に消えていった。私は耳を澄まし、女の足音が消えたことを確かめ、自動販売機の前に立った。
 長い間影の中にいたので、顔や体のあちこちに影がこびりついてしまったのを販売機の光で洗い流しながら、並べられている商品に目をやった。それは普段見ているのと同じ顔ぶれ(コーラとかお茶とかコーヒーとか)だったが、あの女のことを見てしまったあとでは全て嘘っぱちにしか見えなかった。
 しかし、仮に小銭を入れてコーラのボタンを押したとしても、果たしてあの哺乳瓶は出てくるのだろうか。女が元々入っていた品物を出していた様子はなかったし、普通に考えれば元々の商品が売り切れたあとに哺乳瓶が出てくるはずだ。にも関わらず、もし哺乳瓶が先に出てきてしまった場合、温かい飲み物を飲むことができないばかりか、見ず知らずの女の母乳を飲むことになってしまう。そういう性癖の男なら喜んで口にしてしまうのだろうが、私にはそういう趣味はない。
 どうしようか迷っているところに、風が吹いた。冷たく乾いた空気が、耳や首筋を不気味に撫でていった。私は意を決し、小銭を入れた。どちらにせよ100円ちょっとの問題だ。そう自らに言い聞かせながら、震える指先で、コーンポタージュのボタンを押した。ガコン、と耳慣れた音が足元に響いた。今の音だけではちょっと判断がつかない。私は物を取り出そうと腰をかがめた。
 と、そのとき、割と近くから足音が響いてきた。こちらに近づいてくる。あの女が戻ってきたのかもしれない。私は慌てて手を引っ込め、そして自動販売機の前から一目散に逃げ出した。どこまで走っても、通りには誰もいなかった。走りながら激しい後悔に襲われたが、それが何に対する後悔だったのかはよくわからなかった。