超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

馬とエレベーター

 エレベーターの扉が開くと、黒くて大きな馬が眠っていた。壁には蔦が絡まり、床には木の根が張り巡らされていた。湿気と草のにおいが漂ってきた。嫌な予感がしたが、疲れているのでエレベーターを使うことにした。馬に触れないようにそっと乗り込み、寝息に合わせて扉を閉めた。
 ちらりと馬を見た。獰猛そうな顔つきだが、とりあえずよく寝ている。どうやら気づかれていないようだ。ほっとして前を見ると、ボタンや階数表示もすっかり苔に包まれていた。私は15階のボタンがある場所を指で探り、押した。数字は見えなかったが、毎朝毎晩押しているのだから、その位置はだいたいわかる。指先には湿った不快な感触が残った。すぐに頭上で機械の動くこもった音が響き、エレベーターが緩やかに上昇し始めた。あとは扉が開くまでじっとしていればいい。
 一安心したそのとき、馬がぶるる……と鼻を鳴らした。私は頭から水をぶっかけられたような気持ちがした。馬の方を見る勇気はなかったので、腕時計のガラスに反射させてそっと馬の様子を窺った。逞しく黒光りする肉の塊がゆっくりと呼吸している。起きてはいないようだ。私は再び安堵した。もしも馬が目を覚ましたら、私はあっという間に蹴り殺されてしまうだろう。
 エレベーターは変わらず同じ速さで上昇していく。しかし15階ってこんなに高かっただろうか。階数表示は苔で見えない。爪で少し剥がして見てみようかとも思ったが、それこそ馬を怒らせてしまいそうで思いとどまった。私は息を殺してただひたすらに立ち続けていた。馬は起きる様子を見せない。不安が少し和らぐのを感じた。
 やがて、いつもならとっくに15階に着いているはずの時間が経った。しかし、エレベーターは止まらなかった。一度消えかけたはずの不安が、私の心に再び濃い影を落とした。ボタンを押し間違えたのかもしれない。このエレベーターは30階まで行くことができるのだ。きちんと15階のボタンを押せたかどうかの保証はない。
 私は迷った挙句、とうとう階数表示の上に生えている苔を爪で少し剥がしてしまった。階数表示は目的の階を15階と示していた。私はほっとした。考えすぎだったようだ。
 私は爪に挟まった苔の塊を無意識のうちに指で弾いていた。苔の塊が目の前の壁に当たり、跳ね返って私の背後に落ち、かすかな音を立てた。嫌な汗が背中に流れた。自分の軽率な行動に頭が痛くなってきた。今ので起きてしまったかもしれない。私はもう一度腕時計を構えようとした。しかし、突然背後の空気が重くなったような気がして、手を引っ込めた。
 見られている気がする。
 馬は本当に眠っているのか。私がさっき確かめたのはあくまで馬の腹が動いているということだけだった。本当は私が馬に背を向けた瞬間、目を覚ましていたのかもしれないのだ。ずっと私を観察していた挙句、私が森の一部を破壊してぞんざいに扱う一部始終をすべて見ていたのかもしれないのだ。私は喉の奥に悲鳴の塊がせり上がってくるのを感じ、慌てて手で口を塞いだ。
 そのときエレベーターが止まった。そしてゆっくりと扉が開いた。私はほとんど転がり出るように、しかしそれでも極力物音を立てないようにして目の前の廊下に出た。ほんのわずかの間に、足首を掴まれるイメージや、背中や後頭部を蹴られて弾き飛ばされるイメージなどが目まぐるしく脳内を駆け巡った。
 私は後ろを振り返ることもできないままその場にへたり込んだ。すぐに背後で扉が閉まる音がし、馬の呼吸音が断ち切られた。廊下はしんと静まり返っていた。