超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

妻とドアノブ

 何だか体の調子が悪い、と朝から病院に行っていた妻が夕方、胸の真ん中にドアノブをつけて帰ってきた。
「医者がつけろって言うから」
 妻は照れくさそうに笑った。
「開けてみた?」
 と尋ねると、
「何だか恥ずかしくて」
 と要領の得ないことを言って寝室に引っ込んでしまった。

 夕飯の時間、私と当たり障りのない世間話をしながら、妻はしきりにドアノブを触っていた。その動きは、何となく自慢げなものに見えた。
「なくすといけないから、鈴とかつけようかな」
 と言うので、自転車の鍵につけていた小さな鈴のキーホルダーを外し、妻に手渡した。なくすわけはないと思うが、これで妻が安心するなら私が口を挟むことじゃない。

 それから、妻が歩くたびに家の中に涼しげな音が響くようになった。妻の風呂の時間は長くなった。ドアノブを洗っていたのだと思う。
 しかし時々思い出したように
「開けてみた?」
 と尋ねても、その度に妻は曖昧な笑顔で首を横に振るだけだった。

 数ヶ月後のある晩、妻が胸をおさえて倒れた。すぐに病院に担ぎ込まれ、精密検査が行われた。妻が病室のベッドで眠っている間、検査の結果が告げられた。
 病室に行くと、妻がすべて心得た顔で私を待っていた。朝が来るまでの数時間、黙って妻の手を握っていた。妻はずっと微笑んでいた。

 あと十拍で心臓が止まるというとき、
「開けてみた?」
 と尋ねてみた。
 妻は曖昧な笑顔で首を横に振り、私の髪を撫で、すぐに息を引き取った。

 眠そうな顔の医者が入ってきて、妻の入院服をはだけると、おもむろに胸のドアノブをひねった。乾いた音で鈴が鳴った。