トモコとマリコ

超短編を中心とした短い読み物を発表しています。

地図と看護婦

町外れにある総合病院の最上階、最も日の当たる病室のベッドで、古い地図が眠っている。
 彼の全身には虫食いの穴があき、あちこちに黒いしみが浮き出ている。描かれている山も町も野原もそれらを彩る異国の文字も、長い年月、日に焼け風雨に打たれてきた結果、すべて同じ色になってしまっている。しかし、彼の寝顔はとても穏やかだ。

 明るい壁紙のこの病室には彼と、彼を担当する若い看護婦の2人しかいない。
 地図の右半身には頭から足にかけて、山々の間を太い川が轟然と流れており、この川には点滴の針が刺さっている。
 この点滴の管理と、排泄物の処理が看護婦に与えられた主な仕事だ。あとは日がな一日椅子に座っているだけでいい。

 看護婦がこの病室に配属された時から、地図はずっと眠ったままだ。
 だから彼女は時々、ひどい孤独感に襲われることがある。椅子の背もたれに寄りかかり、廊下に面する壁に耳を当てると、足音やストレッチャーの車輪の音がせわしなく聞こえてくる。同僚や、かつて担当していた患者たちや、老いた両親の顔が次々と浮かんできて、背中に嫌な汗が滲んでくる。そんなときは決まって、地図を置き去りにしたまま、この病室から逃げ出したくなる。
 しかし同時に、とても穏やかな空気が流れるこの病室を離れたくない、と強く思ったりもする。
 特に、夜明け前。太陽が山の向こうで息を潜め、空がまだ淡い菫色で満たされている時間、そっと耳を澄ますと、地図の寝息の隙間から、人々の歌声が聞こえてくる。聴いていると何かを思い出しそうになる、どこか懐かしいメロディー。
 地図の体のあちこちから響いてくるその歌を聴くと、看護婦の胸はきゅぅっと締め付けられ、病室の外に戻ることがとても恐ろしく思えてくる。やはり、自分はここにいるべきなのだ。
 だがやがて日が昇り、部屋の外からせわしない物音が聞こえ始めると、看護婦の心は再び不安と孤独感に苛まれる。
 結局どっちつかずのまま、地図の寝顔を眺めて、看護婦の一日は暮れていく。

 ある晩、ベッドの傍らの椅子で尿瓶を抱いたまま居眠りしていた看護婦は、大砲の音で目を覚ました。飛び起きると、地図の腹から黒煙が立ちのぼっていた。その奥で暴れまわる炎が、清潔な壁に看護婦の影を浮かび上がらせていた。
 看護婦は落ち着いて、落ち着いてとつぶやきながら、先任の看護婦に教えられた通り、消毒液で湿らせた布巾を炎にかぶせた。じゅう、という音を立てて炎は消え、地図の全身に人々のざわつく声が広がり、やがて何も聞こえなくなった。
 静けさが戻った病室で、看護婦は額の汗を拭った。地図の腹には、黒い灰がこびりついていた。

 友理子サン。

 ふいに看護婦の名前を呼ぶ声がした。暗闇の中で地図がうっすら目を開けていた。

 ナニカ、アリマシタカ。

「ご心配なく。今先生を呼んで参りますから」

 ソウデスカ。
 ゴメンナサイ。ビックリサセチャッテ。

「なんのなんの」

 アリガトウ、友理子サン。
 オヤスミナサイ。

 地図はふっと目を閉じた。看護婦は大きく息を吐き、病室の窓を開けた。地図と言葉を交わすのは初めてだった。
 ずっと眠っていたのに、いつ私の名前を知ったのだろうか。
 開けた窓から、夜風が忍び込んできた。ドキドキする胸と、妙に冷静な脳みそが、同時に冷却されていくような気がした。看護婦は点滴の針が外れていないことを確かめると、床に転がる尿瓶を拾い上げ、病室のドアを開けた。

 あの歌。
 今日は聞けるかな?

 看護婦は指先に残った焦げ臭いにおいを嗅ぎながらそう思った。夜の廊下は暗く、冷たかった。点滴の針を囲む山々に、かすかに霧が出始めていた。
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