超短編小説 トモコとマリコ

超短編小説を中心とした短い読み物を発表しています。

一人暮らしとわけありの部屋

 初めての一人暮らしである。妥協はしたくなかった。
 もっと安い部屋はありませんかと聞くと、不動産屋は一瞬暗い顔になり、
「あるにはあります」
 と答えた。
「いわくつきですか?」
 と尋ねると、今度は何も答えない。ただ奇妙な笑みを口元に浮かべたまま、何か考え込んでいる。私が首を傾げると、
「見ていただくのが一番ですかね」
 と妙にさっぱりした口調で言い、エレベーターのボタンを押した。

 案内されたのはマンションの最上階の端にある部屋だった。不動産屋は鍵の束の中から赤いビニールテープが巻きつけられた鍵を取り出し、扉に差し込んだ。中に入ると、すぐに異変に気づいた。

 廊下の突き当たりにあるリビングの真ん中に、巨大なオブジェのようなものが鎮座している。不動産屋に促されるまま近づいてみると、それは焼け焦げたギロチンだった。
「どうですか」
「っはぁ」
 私は間抜けな声を上げた。間近でみるギロチンは、思った以上に迫力があった。
 不動産屋は鼻をすすり、窓を開けた。駐車場の方から、子供たちの遊ぶ声が聞こえてきた。
「においがするんですよね、焼けた木の……」
 不動産屋はつぶやいた。
 私は何も答えず、ギロチンを見上げた。天井に軽々と届くほどの大きさだった。赤黒く錆びた刃が、西日の中でむっつりと佇んでいた。刃を支える柱の根元に、ナイフで彫ったらしい異国の文字が見えた。
「何て?」
「フランス語には疎いので……」
「フランス語ですか」
「社長はそう言ってました」
 手で軽く触れてみる。びくともしない。よく見るとフローリングの床とギロチン台が直接繋がっていた。
「どれくらい安くなります?」
 と聞くと、不動産屋は
「先ほどのお部屋の4分の1で結構です」
 と答えた。
 私は色めき立った。初めての一人暮らしである。妥協はしたくなかった。
 私は契約書に判を捺した。

 いざ暮らし始めると、すぐに慣れてしまい、特に不便も違和感も感じなかった。不動産屋の言うにおいもさほど気にならなかった。友人も恋人もいなかったので、誰かが部屋を訪れるというようなこともなかった。最上階の部屋なので、窓の外から見られることもなかった。私自身、元々ギロチンという物に何の知識も興味もなかったため、だんだんと空気のような存在になっていった。

 思い出らしい思い出は一つだけ。
 その部屋で暮らし始めて3年目の春、ある朝目覚めたら、とつぜん死にたくなったことがあった。
 そこで仕事を無断欠勤し、素っ裸でギロチン台に寝転んだ。首を固定し、とても素直な気持ちで刃が落ちてきてくるのを待っていたが、刃はそれに応えてくれなかった。部屋に西日が差し込んできた頃、急に腹が減ってきた。馬鹿馬鹿しくなってギロチン台から降りた。

 降りた瞬間、刃が落ちた。

 そんな展開を期待したが、刃は相変わらず仏頂面で佇んでいるだけだった。なんだか微笑んでいるようにも見えた。

 結局、6年ほど暮らした。その間、変わったことは何もなかった。死にたくなるような朝も来なかった。
 引っ越した理由は単に飽きたからで、格安の値段で最上階の眺めを楽しめたことを考えると、我ながら贅沢だったと思う。

 その後も、たとえば呪いとか祟りとかいった類の目にも遭ったことはなく、私は30で普通に結婚して80で普通に死んだ。